[演劇] シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』

[演劇] シェイクスピアジュリアス・シーザー』 パルコ劇場 10月26日

(写真は舞台、左からキャシアス[松本紀保]、アントニー[松井玲奈]、中央はシーザー[シルビア・グラブ]、右にブルータス[吉田羊])

f:id:charis:20211027084628j:plain森新太郎演出、科白は福田恒存訳、すべての役を女性が演じる珍しい舞台。女性がやってもちゃんと演じられるし、まったく不自然さがない。王、将軍、豪傑といえば男らしい男、つまり男性性の象徴とみられがちだが、それはたんなる偏見でしかなかったことが、この舞台からよく分かる。女が王、将軍、豪傑であったとしても、それはとても自然なことだ。その意味で、オールフィーメルにした意義は十分にある。とりわけ、思索的で思慮深いブルータスを演じた吉田羊と、若々しいアントニーを演じた松井玲奈は特によかった。ブルータスやアントニーが、魅力あふれる人物であったことがよく分かる(写真↓上はブルータス、下はアントニー)

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しかし私には、『ジュリアス・シーザー』は、どこか奇妙な作品に思われる。シーザーは前半で死んでしまい、劇の主人公はブルータスになっている。つまり、シーザーが魅力的な人間であることが、舞台のどこにも示されていない。しかしそれでは、ブルータスたちが口々に語る「私はシーザーを愛している」という言葉に、リアリティが感じられなくなりはしないか。この作品の一番の決定的科白は、ブルータスの「私はシーザーを猛烈に愛している、しかしそれ以上にローマを愛している」だと思う。シーザーは優れた指導者、英雄であるが、王は政治的に公共性を体現していなければならない。その公共性という点にわずかな欠陥があること、すなわち私的な野心が混じっていることが、ブルータスがシーザーを殺す唯一の理由である。だから、シーザーは、たんなる傲慢な専制君主ではなく、欠点をはるかに上回る大きな美徳を備えた魅力ある人物でなければならない。そうであればこそ、アントニーの演説によって、民衆があっという間に反ブルータスの立場に代わってしまうのだ。アントニーの巧みな演説が民衆を扇動したというのは、ことの半面にすぎない。そもそも、シーザーの魅力の部分の表現が『ジュリアス・シーザー』にはやや少ないように思われる。だから、シルビア・グラブのシーザーに人間の魅力が感じられなかったとしても、それは役者や演出家の責任ではなく、シェイクスピアが悪いのだと思う。

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50秒ほどの動画が

https://www.youtube.com/watch?v=fNDE9iR-jGY