今日のうた(126) 10月ぶん

今日のうた(126) 10月ぶん

 

秋刀魚食ふ五十五階の窓辺にて (高橋まさお『東京新聞俳壇』9月26日、小澤實選、「高層ビルの食堂で、旬の焼さんまを食べているのだろう。五十五階に意表をつかれた。はるかまで見えている」と選者評、高層ビルの窓辺では焼さんまの存在そのものが新鮮にみえる)  10.1

 

生きながら幻となる人の秋 (齋藤達也『朝日俳壇』9月26日、長谷川櫂選、「マスクをするとこんな感じがする、誰でも」と選者評、顔が半分見えないと、他人とは違う<その人>としてのアイデンティティが曖昧になるから、人間としての存在感が薄くなるのだろう) 10.2

 

コーヒーと動画はさみて向い合う子の暮らしぶりぽつぽつ知りぬ (藤本恵理子『朝日歌壇』9月26日、佐佐木幸綱選、「オンライン映像ではじめてわが子の部屋を見たのだろう。どことなくユーモラスな味わいが嬉しい」と選者評、私もオンライン映像で初めて知人友人の自室を覗き見た)  10.3

 

27歳で東京に成り果ててあらゆる視界で景色B役 (『東京新聞歌壇』9月26日、東直子選、「上京して何年も経った感じを新鮮な言い回しで表現している。その他大勢であることの淡い諦念を自覚する27歳」と選者評、たとえば東大生も、入学すれば、小学校の「神童」が「ただの人」に)  10.4

 

金木犀風の行手に石の塀 (沢木欣一、金木犀は普通、まず香りでその存在を知り、次いで、どこだろうと探して、視覚に捉えられる、しかしこの句では、作者の後方の金木犀は見えていない、その香りだけが風に乗って前方へ流れているが、その行手を「石の塀」が遮っている) 10.5

 

ひとりでに家壊れつつあきざくら (坂戸淳夫、「あきざくら」はコスモスのこと、最近は、大都市の内部は別として、住宅地には空き家がだいぶ増えた、空き家はどんどん荒れて壊れてゆく、そういう場所には雑草のように生い茂ったコスモスがよく似合う) 10.6

 

名月や烟(けむり)はひゆく水の上 (服部嵐雪、「烟」とは川霧のことだろう、「月に照らされてやや明るい川の水面を、白い霧のようなものがすべるように動いてゆく、いい月だなぁ」) 10.7

 

岩端(いははな)やここにもひとり月の客 (向井去来、「岩端」とは大きな岩の出っ張ったところ、「月が美しいので野山をぶらぶら歩いていたら、岩山の端にでたよ、いい場所だな、あっ、「ここにも一人」月見の先客がいる」) 10.8

 

石山(いしやま)の石より白し秋の風 (芭蕉1689、「奥の細道」の旅に出た芭蕉は、加賀の那谷寺に来た、境内は全山が白っぽい石英粗面岩からなる霊場になっている、秋の風が「その白い石よりも白い」と感じられる、寂しい情景)  10.9

 

十団子(とをだご)も小粒になりぬ秋の風 (森川許六、作者は彦根の人、「宇津の山を過ぐ」と詞書、峠の茶屋で名物「十団子」をまた買った、十個の小さな団子が連なるが、「あれっ、前より団子が少し小さくなったぞ」、実質的な値上げなのか、今もありそうな話) 10.10

 

秋惜しむ戸に訪(おとづ)るる狸かな (蕪村1771年9月3日、小西甚一によれば、蕪村はこの日、仲間の俳人たちと「化け物づくし」の句を詠み合ったという、その中の一句、「狸」は何か愛嬌があって「化け物」という感じがあまりしないが、当時は違ったのか)  10.11

 

黄昏のレモン明るくころがりてわれを居れざる世界をおもふ (井辻朱美『地球追放』1982、夕暮れのやや暗い室内、テーブルに明るく輝いてころがるレモンが、もうそれだけで十全な存在にみえる、それを見る私など不要な「われを居れざる世界」なのだ、それは)  10.12

 

何でさう聞きたがるんだ率直に言ふならばまあ(→∞)こんな感じだ (萩原裕幸『あるまじろん』1992、(→∞)のような記号が短歌に登場するようになったのは、インターネットのせいだろう、絵文字なども含めて従来にない記号がたくさん短歌に登場するようになった)  10.13

 

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 (穂村弘『シンジケート』1990、短歌は時代を映す、俵万智『サラダ記念日』1987等、80年代末から90年代初めに、今までと違う新しい短歌がどっと生まれた、バブル全盛、ベルリンの壁と転換期だった) 10.14

 

息づいてエレベーターに押されいる我は細かい実をつけた枝 (安藤美保『水の粒子』1992、作者の代表歌「君の眼に見られいるとき私はこまかき水の粒子に還る」と何かが共通する、他者からの何らかの「作用」を感じる時、自分の体は「小さな粒子」の集積に感じられる) 10.15

 

女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて (飯田有子『林檎貫通式』、小学校の高学年か、月経と妊娠について教わるために女子だけが体育館に集められた、「膝を抱えて」床に座る彼女たちは「パラシュート部隊」に見える、「産む機械」の戦士なのだろうか) 10.16

 

若草の新手枕(にいたまくら)を枕(ま)き初(そ)めて夜(よ)をや隔てむ憎くあらなくに (『万葉集』巻11、「君は若草のように瑞々しい、新婚の「まき初めた」その「手枕」、一晩だって間を置くものか、毎晩にきまってるでしょ、愛してるんだから!」) 10.20

 

君や來む我や行かむの十六夜(いさよひ)に真木の板戸も差さず寝(ね)にけり (よみ人しらず『古今集』巻14、「貴方が来てくださるかしら、でも来ないなら私が行こうかしら、どうしようかしら、十六夜の月のようにぐずぐず迷っているうちに、戸閉まりもしないで寝ちゃったわ」) 10.21

 

思うてふ言の葉のみや秋を経て色もかはらぬものにはあるらむ (よみ人しらず『古今集』巻14、「秋のもみじは終って、すっかり色あせてしまったけれど、いつまでも色あせないものってあるだろうか、あるとも、僕が言った「君を愛している」という言葉だけは色あせないよ」)  10.22

 

掻きやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ (藤原定家『新古今』巻15、「今、独り寝の僕には、あぁ、共寝して掻きやった君のあの黒髪が、一筋一筋くっきりと見えているよ」、和泉式部「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人を恋しき」に呼応した歌) 10.23

 

恋ひ死なむ身は惜しからず逢ふ事に替えむほどまでと思ふばかりぞ (道因法師『千載集』巻12、「僕はね、君を恋するあまり死んでしまうことを残念とは思わない、でもそれは、もう一度必ず君に逢うことと引き替えに死ぬのでなければならない、あぁ、逢いたいよ」) 10.24

 

つもりゐる木の葉のまがふ方もなく鳥だに踏まぬ宿の庭かな (式子内親王『家集』、「庭の木の葉が散って、入り乱れるとこともなく一面に敷き詰めたようになっている、鳥が来て踏んだ跡もない、誰も私のところには来てくれないけれど、鳥さえも来ないのね) 10.25

 

冷蔵庫ひらく妻子のものばかり (辻田克己、「冷蔵庫」は夏の季語、電気冷蔵庫の登場以前、氷式冷蔵庫の頃に早々と季語入りしたのだろう、当時は夏だけ冷蔵庫を使ったのか、いや江戸時代には、冬季に大量の氷を地下の洞穴深くに移して食料保存したとも、「冷蔵庫」の歴史は古い) 10.26

 

白粉花(おしろいばな)過去に妻の日ありしかな (きくちつねこ、作者は今は離婚して独身なのだろう、オシロイバナを見て、かつての自分の化粧を想い出した、「妻の日」に対する感慨は、たぶん両義的) 10.27

 

妻がゐて子がゐて孤独いわし雲 (安住敦、澄んだ秋空の「いわし雲」は美しいが、どことなく寂しい、可愛い妻と子のいる家族、だが父も孤独なときがある)  10.28

 

よろこびて馬のころがる今年藁(ことしわら) (滝沢伊代次、「今年藁」とは稲刈りの後、田に残された藁のこと、最近もよく見かける、でも「よろこびて馬のころがる」は本当なのか、「犬走り回る」ならありそうなのだが) 10.29

 

さやけくて妻ともしらずすれちがふ (西垣脩、楚々とした美女が向こうから歩いてくるので、思わずじっと見詰めてしまった、そしたらなんと妻だった、愛妻句というか、ノロケのうたか) 10.30

 

子にみやげなき秋の夜(よ)の肩ぐるま (野村登四郎、作者が貧乏な頃の句か、幼な子に「みやげ」を買って帰りたかったが、買えなかった、その代りに「肩ぐるま」をしてやる) 10.31