[演劇] 別役実『あーぶくたった、にいたった』

[演劇] 別役実『あーぶくたった、にいたった』 新国・小 12月14日

(写真↓、男1と女1の結婚式なのだが、これから生まれてくるだろう子供がグレるなど、二人の会話はどんどん妄想が膨らんだ結果、結婚はとりやめになった、それともならない?)

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別役実は『マッチ売り』『象』に次いで、見るのは三つめ。本作も非常に面白い不条理劇だ。こんな状況でこんなことを感じたり考えたり言ったりすることは、普通はなさそうな、でもやっぱりありそうな、その微妙な境界線に人が置かれている。結婚のとき、将来の子供についていろいろ思いを語り合ううちに、妄想が膨らむことは十分あるだろう。また出社拒否の男1が、そのことを妻に言えず、この一週間は毎朝、出社の振りをして家を出ていくことは十分ありうるが、それを言い訳する科白と語り方がとても面白くて、思わず笑ってしまう。滑稽な中に不条理があるのだ。(写真下は↓、どっかの知らない老夫婦が勝手に上がり込んできて、病気らしい妻は死んでしまう。驚く男1女1の若夫婦だが、実はこの老夫婦は若夫婦の将来の姿でもありそうなところが不条理の極み、老夫婦は流浪していたのだ)

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不条理ポイントの一つは、流浪と定住が対置されて、男1女1は流浪も定住もすることである。「男1:住むんだよ。住まうんだよ。この・・・世界を、愛するためにさ・・・。/女1:でも、どうして・・・/男1:いや、そうだよ。わかるよ。色々なことがあったさ・・・。でもね、もう許しておやり・・・。もうそろそろ、許してやってもいい頃だよ・・・。」たぶんここは、劇全体の重要箇所で、こんなに生きにくい世の中で、誰もが「家出」したくなるのが本音だが、ほとんどの人はそれを押さえて定住するから、滑稽になるということか。初演の1976年の日本は、「生きにくい」と感じる人はそう多くなかったと思うのだが、「生きにくさ」が表現されないままに抑圧されて内面化されるから、あちこちが滑稽な不条理になるのか。そうだとすれば、この劇は1976年よりも45年後の今の方がリアルに感じられるはずだ。「不条理」というのは非常に難しい問題で、安部公房の『友達』を見たとき、ヨーロッパの不条理劇がただ模倣されているように感じて白けた経験がある。別役実の方が、「小市民」の不条理性という限定があるだけ、自分の頭で「不条理」を考えているように思う。

2分強の動画がありました。

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