うさぎストライプ『空想科学Ⅱ』

charis2018-11-30

[演劇] うさぎストライプ『空想科学Ⅱ』 駒場アゴラ劇場 11月30日


(写真右はポスター、下は舞台、70歳近くまで生きて死んだ妄想少女と彼女の服)

 大池容子作、うさぎストライプ公演は、『バージンブルース』が傑作だったが、今回の『空想科学Ⅱ』もとてもいい。どちらの作品も、不条理劇の仮面をかぶった純愛劇で、「愛は妄想の中にしか存在しない」ことが描かれている。『空想科学Ⅱ』は、ラブホでタカハシ君という男と知り合った少女が、彼を愛してしまい、彼はすぐ死んだにも関わらず、彼女はずっと彼を愛し続ける。その同じラブホの部屋に、二人はたぶん50年近く住み続ける。そして50年間、その妄想少女は年をとらずに可愛い少女のまま。そして彼女が死んだお通夜の晩に、姪たちやその夫、友人たちなどが集まる、という物語。不条理劇の構造はかなり凝っていて、頭を斧で割られて死んだタカハシ君に対して、姪の夫である龍太郎が、斧で人の頭をたたき割る夢をいつも見ることが、メタレベルになっている。しかも、両者は異次元でありながら、ラブホの一室でときどき相互作用する。そして、ラジオのDJ番組で若者たちの交友が回想される。何といっても、龍太郎が「夢から醒めそうで醒めない」という微妙な事態が不条理を引っ張り続けるのが面白い。完全に醒めてしまえば不条理も事切れる。たぶん愛の存在そのものが、「夢から醒めそうで醒めない」状態に依存しているのだろう。最後に現われた龍太郎の血塗られた服は、たぶんタカハシ君の返り血。だが、龍太郎が夢から醒めるとすれば、それと同時にタカハシ君も消滅するだろう。しかし、その直前で終幕になる。妄想少女の葬式のとき、龍太郎も死んでいて、姪は未亡人になるのだが、そこはよく分からなかった。龍太郎の死は、タカハシ君と妄想少女の存在様相に影響を与えないのだろうか? 写真↓は、妄想少女が50年を過ごすラブホのベッド、地味で上品なのがいい。

 全体が誰の夢なのかははっきりしないが、たとえ妄想少女の妄想=空想であったとしても、二人の愛はとても初々しく、愛そのものがどこまでもリアルなのが素晴らしい。タカハシ君は、「生きていてもいいことないから27歳で死ぬのが夢だった」が、28歳で死んでしまった。だが、彼女だけ無名の妄想少女は、初めて海岸をデートした日、ベッドで言う、「じゃあ、私、長生きする、タカハシ君さみしくないように、すっごい長生きして、大往生する。・・最後、百歳まで生きて、孫とかに看取られて、そんで死ぬの」。そして、彼女が死ぬ時の、ベッドでの会話、タカハシ「いた? ・・・おれ」、女「・・・いたよ。」、タカハシ「ホントに?」、女「てゆうか・・・いるでしょ、ここに。」、タカハシ「・・うん。そうね。」愛は何と優しいのだろう! 二人の会話は、いつもストレートにはつながらず、「えっ?・・」と聞き返し、いつも一呼吸入るのだが、それがとてもいい。「ねぇ、ねぇ、タカハシくん、見て、見て、私60歳になったよ!」とベッドの上でワンピース姿ではしゃぐ彼女は何て可愛いのだろう!(写真下↓、ただしこれは40歳のワンピースかも) たとえ妄想と狂気の中であろうと、愛の存在だけは決してリアリティを失わない。それは、小さな宝石のように光っている。愛の、今、を生きることは、永遠、を生きることなのだ。

 友人たちも何人かは死者として登場し再会するのだが、彼らは暴走族だったり不良系だったりするが、みな寂しがり屋で孤独な若者だ↓。彼らもまた妄想の愛に生きているようで、それがとても愛おしい。「それってサイコパスじゃん」という科白があったが、これは「愛は妄想の中にしか存在しない」ことの言い替えなのだろう。妄想少女は最初から最後までずっと下着姿で、取っ替え引っ替え、ワンピースに着替えるのだが、60年代ファッション風で、それがとても可愛い。下着といっても、白い大きなトランクスのパンツなので、彼女はエロい感じがしない。やはりずっとパンツ一丁のタカハシくんも、ちょっとニヒルなのがいい(↓)。彼女ほど愛情表現が強くないけれど、まちがいなく二人は相思相愛。名前のないこの妄想少女は何と美しいのだろう!(↓) 28歳と70歳の二人の人生は、愛のある幸福な人生だったのではないだろうか。音楽と歌も、昭和ふうもあるちょっとレトロなのがいい。