[演劇] 大池容子『あたらしい朝』 うさぎストライプ公演 駒場・アゴラ 5月9日
(写真↓は、旅行する若者たち、ほとんどが、うさストの俳優で、何度も見ている私は、親しみを感じる)
大池容子の作品はすべて、不条理劇の形式の中に美しい純愛がスーッと光る。この作品は、二人の純愛というよりは、家族の絆が主題だ。2020年の初演よりも上演時間が伸びて、「旅」の部分が増えた。人と人との距離というものは非常に不安定だ。家族という親密圏においても、距離はたえず縮んだり離れたりしている。本作は、夫を事故死で失った妻が、亡霊のような架空の夫とドライブごっこをしているうちに、ヒッチハイクをしている女を見つけて「あいのり」させたら、その女は、妻の母の若い頃の姿をした亡霊であることが、やがて分るという不条理劇。そのドライブごっこは、羽田から飛行機による観光旅行、ベトナムでのクルーズ旅行、イスタンブールへの新婚旅行などと発展し、そのつど新しい男女が「あいのり」になるが、それは夫婦の中学や高校時代の先輩やサークルでの知り合いであることが、少しずつ分ってくる。みな、明るくふるまっているけれど、どこか寂しさを抱えている若者だ。(写真↓は、左から妻[清水緑]、夫[木村巴秋]、妻の母の若い頃[北川莉那])
たしかに「旅」というのはそれ自体が微妙なものだ。新しい「出会い」もあるが、「すでに出会っている」者同士が、あらためて相互の関係性を発見することもある。夫を事故死で失った妻は、旅先で新しい「出会い」を求めているが、つねに横にいる夫の亡霊はそれをいやがる。ヒッチハイクで乗せた昔の母は、「旅行先で出会って結婚した夫とは離婚した」と言い、妻はショックを受ける。このような時空のワープによるパーソナリティの重なりが繰り返されることによって、劇は進行し、終盤に近付くにつれて少しずつ固有名詞が判明する。初めは誰が誰だけ分からなかったのが、最後は個人としてアイデンティファイされるのだ。それでも、というか、そうであるからこそ、基本的には誰もが最後まで孤独なのかもしれない。会話で繰り返し出てくる言葉は「ヒッチハイク」「一人旅」「出会い」「あいのり」「告白」などだが、これらは孤独だからこその言葉だ。
劇中のペストマスク↑は、ヨーロッパ中世のペスト流行時に医師が付けたマスクだが、コロナの恐怖がやや希薄化した現在、その意味がそれだけ分りにくくなったかもしれない。それにしても、家族の繋がりなんて実に不安定で危ういことを「旅」において各人が自覚するという、全体の主題はなかなかいい。音楽など劇全体に横溢する<昭和の雰囲気>は、現代の孤独な若者の、昭和へのノスタルジーだろうか。若者たちの誰もが、切なく、そして愛おしい!(↓) 終幕、三人だけのドライブ・シーンに戻ったとき、夫の実在感が増して亡霊ではなくなったような気がする。こうした彼らの<ほんのりした愛>に、私たちは癒される。