[演劇] ホフマンスタール/宮城聡『ばらの騎士』 SPAC 1月7日
(↑左から、ゾフィー[宮城嶋遥加]、オクタヴィアン[山本美幸])
R.シュトラウスの有名なオペラだが、ストレートプレイにしたのはたぶん世界初。根本卓也の作曲した音楽が少し付いているが、シュトラウスのものはなし。台本はオペラのホフマンスタールのものを宮城がわずかに修正し、演出は宮城と寺内亜矢子。非常に面白かった。これまで私はこのオペラ実演を十数回観たが、音楽の美しさに意識が吸い寄せられて、歌詞(科白)をほどんど聴いていなかったことが分った。こんな科白だったのか!と驚き。特に最後の、元帥夫人、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱は、懐疑に満ちた不条理劇の科白のようで、最後の最後にオクタヴィアンとゾフィーは相思相愛になるのだが、その直前までは三人とも愛に懐疑的なのだ。(↓元帥夫人[本多麻紀]、とオクタヴィアン)
三重唱のところ、原作から引用すると、こんな歌詞だ。宮城版でもほぼ同じ。ゾフィーはオクタヴィアンに向かって「もう 行かせて!」「私のことは 忘れて!」と何度も叫ぶ。元帥夫人は「今日か、明日か、それとも 明後日か」「あの人を 正しい 愛し方で愛そうと思ってた あの人が 他の 誰かを 愛しても それでも 愛そうと思ってた、でも まさか そんなに 早く そうなる なんて!」と、独白ばかりしている。オクタヴィアンは「僕は、ひどいことをしたんだろうか? それを あの人に あの人に あの人に 訊きたくても それは 許されない」と、これも独白。すぐ続いてゾフィー「・・私から 彼の何かを 奪うような 気がするわ 自分で 自分がわからない すべて 知りたいと思う一方で 何も知りたくない」とこれも独白。要するに三人の間で会話がまったく成り立っていない。チェホフ劇と同じで、ディスコミュニケーションというか不条理な会話になっている。
帰宅後、私は初めて原作の歌詞をちゃんと読んでみたが、哲学的というか、演劇的にもすばらしい科白が多い! まず第一幕冒頭のベッドシーンは、オクタヴィアンの「きのうのきみ! けさのきみ! だれも知らない 思いもよらない」で始まる。そして「・・ああ きみ! きみ! でも「きみ」って何? 何なの「きみと僕」って? 意味があるの? 言葉 ただの言葉にすぎないんだ! ねぇ 違う?」と続く。そして第一幕終りの二人の対話では元帥夫人「時ってね カンカン そう 時って 何も変えるわけではないの 時って 不思議なものよ・・・人の顔の中で 音もなく 流れている 鏡の中でも 流れている 私のこめかみでも流れている そして 私とあなたの 間でも 時はやっぱり 流れているの 砂時計のように 音もなく・・・私 ときどき 真夜中に起きて 時計を みんな 止めてしまうの でも 時を 恐れることは ないわね 時だって 私たちと同様 神様が 造られたんですもの」。「その日は いやでも やって来るの いつか 必ず その日が 来るのよ オクタヴィアン」。(オ)「そんな いつか なんて あるものか! きみが好きなんだ(ますます興奮して) 今日も 明日も いつまでも」。(元)「今日か 明日か それとも明後日か きっと あなたを苦しめるつもりは ないの でも これは 本当の こと 二人のために 言うの」
『ばらの騎士』の登場人物たちが、これほどまでに<時間>について語っているとは、今まで気が付かなかった。(ゾ)「あそこへ 戻らなくては! たとえ 途中で 死んでも! でも 私は 死にはしない それは 遠い ところ 永遠の時が この 幸せな瞬間の中に あるのだわ この瞬間を 私は けっして忘れない 死ぬまで 忘れない」。第3幕、オクタヴィアンはマリアンデルとして、オックス男爵に向かって、求愛のふりをしてこう歌う「時が 過ぎれば 風が 吹き去るみたいに あたしたち 二人とも死んでゆく だって 人間 なんだもの」。まるでシェイクスピア劇のように素晴らしいしい科白ではないか。喜劇では普通<とき>や<永遠>という言葉はあまり出てこない。だから『ばらの騎士』は『フィガロの結婚』と同様に喜劇ではあるけれど、喜劇ではない<永遠の今>が現出している。
この宮城版は、喜劇の部分にいろいろ工夫がある。成り金ブルジョアで爵位を金で買ったファーニナル(ゾフィーの父)をシェイクスピアのファルスタッフに造形したのはとてもいい[写真↓中央]。オックス男爵だけでなく、もう一人、超喜劇キャラを増やすのは、悲劇キャラの元帥夫人とより大きな対称を作り出すわけで、物語がそれだけ大きくなる。第三幕を明治時代の日本の宿屋にしたのも上手い。一つ疑問に思ったのは、原作ではオクタヴィアンは元帥夫人の侍女「マリアンデル」に化け、何度もその名を呼ばれるが、宮城版ではそれがない。また原作ではオクタヴィアンは「17歳」と何度も言われるが、宮城版では「18歳」になっている。これはなぜだろう。原作では、たぶんホフマンスタールが書いたのだろうが、人の動きを細かく指定する長大なト書きが延々と書かれていて、こんなオペラは珍しいだろう。演劇的要素を大切にしたのか。原作から音楽を剥ぎ取ってストレートプレイにした宮城の着眼は凄いと思う。
15秒だが最後の舞台あいさつ
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