スピノザの懐疑論批判

議論のために「黒板」が必要なので、今日の日誌はそれに。

デカルトは『省察』で根源的な懐疑論を展開した。偽なのに真と思い込ませる「悪しき霊」の仮説がその頂点に来る。スピノザ哲学は、この「悪しき霊」批判を核として成り立っており、その懐疑論批判はヘーゲル精神現象学』のEinleitungに受け継がれた。これは個々の哲学者がたまたま述べた学説ではなく、哲学で繰り返し再生産される論理構造の対立である。以下、スピノザの引用(岩波文庫版)。

(1)「確かなことは、ペテロの本質を理解するためにはペテロの観念[=概念のこと、引用者]そのものを理解する必要がないこと、ましてペテロの観念の観念を理解する必要はなおさらないことである。これは私が、知るためには知っていることを知る必要がない・・・と言うのと同じである。・・・なぜなら、私が知っていることを知るためには、必然的にまず知らなければならないのであるから。」(『知性改善論』33節)

「真理は何らの標識も必要でなく、むしろ一切の疑いが除去されるためには、事物の想念的本質、あるいは同じことだが、[正しい]観念を有するだけで十分なのだ。・・・真の方法は、[正しい]観念の獲得後に真理の標識を求めることには存しない。」(同36節)

懐疑論者が・・・すべてのことについてなお依然として疑いを抱くとしたら、彼は本心に反して語っていることになる。・・・すなわち彼らは、何かを肯定しあるいは疑っていながら、自分が肯定しあるいは疑っていることを知らないのである。」(同47節、なお『改善論』30〜49節が懐疑論批判)

(2)「全問題の核心はかかって次の点のみに存するからである。それはすなわち、神が欺瞞者であると考えることも欺瞞者でないと考えることも等しく容易であるなどということのないように我々を決定する神の観念、むしろ神がもっとも誠実な者であることを我々に強いる神の観念、そうした神の観念を我々は形成しうるということである。」(『デカルトの哲学原理』p31、なお同書p30〜33がスピノザ自身の懐疑論批判の部分。P28〜30はデカルトによる懐疑論批判)

(3)「じつに、光が光自身と闇を顕わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。」(『エチカ』第二部定理43備考)

★要するにスピノザの主張は、真と偽は互いに独立したものではなく、真が、真と偽の区別そのものを与えているという点にある。どのように根源的な懐疑も、特定の何かを「偽ではないか」と疑うまさにその点において、当の偽を可能にする真の地盤に立っている。