永井均『西田幾多郎』(1)

charis2006-12-03

[読書] 永井均西田幾多郎NHK出版(06年11月刊)


(写真は切手になった西田幾多郎。書かれている歌は「わが心深き底あり喜も憂も波もとどかじと思う」。永井氏の「心に触れた」歌として本書にも紹介されている。p42)


永井均氏の新著が出た。非常に面白かったので、論点をいくつか抜き出してみたい。まず第1、2章では、西田の「純粋経験」に、デカルトの「cogito ergo sum」と、ウィトゲンシュタインの「感覚日記」との両面から光が当てられる。デカルトのcogito ergo sumは、当時から直観なのか論証なのかが問題になり、デカルトは論証ではないと言ったが、実際には直観と論証の両面を持っている(p41)。重要なことは、「われ思う」の「われ」という一人称が、一人称である必然性はなく、『省察』第二答弁では「彼思う」に、『哲学原理』では「われわれ思う」になっている点にある(34〜7)。つまりデカルトのcogito ergo sumは、本来は「彼」に読み替えられない「私」の直接体験から出発したはずなのに、それを「論証もどき」に語ったために、私の直接体験と言語との間にある深刻な亀裂が見失われ、私と彼との違いが飛び越された一般的真理になってしまった。


このような私の直接体験と言語との一致を拒否したのが西田の「純粋経験」である。「彼」として読み替えられない「私」は言語では表現できないと、西田は考える(37)。西田の「純粋経験」を理解するために、永井氏は、西田とは逆の側からデカルトに反対したウィトゲンシュタインと比較する。ウィトゲンシュタインは、有名な「感覚日記」論で、私の直接体験と言語との深刻な亀裂をどこまでも追及した。自分だけに起こる感覚を指すための、私だけに意味を持つ言語「E」という思考実験によって、どのような直接体験もまた、「共通の言語ゲームに乗っかっている」ことを強調した。つまりウィトゲンシュタインは、言語は個人の体験に先立って、個人の体験とは独立にそれだけで意味を持ちうると信じている。それに対して西田は、まったく逆に、体験は言語とは独立であり、体験だけで意味を持ちうると考える。言語と体験を何の問題もなく相即させたデカルトに対して、ウィトゲンシュタインも西田も両者を切り離し、ウィトゲンシュタインは言語の側から、西田は体験の側から、問題を出発させる(p46f)。


西田は『善の研究』において、我々に向かって「純粋経験」を一般的に語っている。純粋経験について一般的に語る言語を、西田はどこから手に入れたのだろうか? 「答えは一つしかありえない。それは純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿していたからであり、・・・内側から叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が、経験それ自体の内に宿っていることによってである。だから、その後の西田哲学は、一種の言語哲学として読むことができる。」(47)


このようにして永井氏は、『善の研究』(1911)の「純粋経験」論が、『自覚における直観と反省』(1917)を経て、『働くものから見るものへ』(1927)の「場所の論理学」へと発展する過程を、体験を言語に架橋する哲学的議論として読み解く。「私」とは、「事物や出来事が<於いてある>場所」である。つまり、「私」は世界と向き合う「主体」ではなく、世界がそこ「においてある場所」なのだ(67)。西田が主張した、主格ならぬ与格としての「場所としての私」は、永井氏がこれまで個人としての「私」と区別するために苦労して作り出した、あの山カッコ付きの私、すなわち<私>とオーバーラップしてくる(97)。そして、西田の後期哲学の「我と汝」論を、言語ゲームと他者の同時的成立の議論と捉えることによって、「絶対無=場所としての私」という田辺元も理解できなかった西田のテーゼに光を当てる。永井氏の独在論とも重なる第3章は、とても難解だがスリリングな魅力に満ちている。だが、急がずに順番に見ていくことにしたい。[続く]