『脳はなぜ心を作ったのか』(1)

[読書]   前野隆司 『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房、'04.11月)

明晰で面白い本なので、アマゾンのレヴューに書き残した論点を。評者は、知覚に伴う<私>という「意識」が受動的に体験されるという前野氏の主張には賛成。だがそれは、「意識」が主体的でないとか、「意志」も錯覚であるとか、これまで哲学が考察した「意識」は間違っていた等々を意味しない。この点では、前野氏に賛成しない。本書で感じた疑問の点を記す。


リベットの実験は何を意味するか?


「意識」が主体的でないことの証拠として、前野氏は、アメリカの医学者リベットが1983年に発表した実験を援用する。リベットは「自分が意図して、自分の人差し指を曲げる」という行為について、(a)自分の心が「曲げよう!」と意図する時刻、(b)脳内に電流が流れる時刻、(c)実際に人差し指が曲がる時刻、という三つの時刻の前後関係を正確に測定した。その結果は、(b)の脳内電流が一番最初で、それから0.35秒遅れて、(a)の自分の意図が意識にのぼり、それから0.2秒ほど遅れて、(c)の指が曲がる。


脳内電流が意図の意識に先立つという事実から、前野氏は、意図は脳内電流の結果として引き起こされるから、意図は指を曲げるという身体運動の真の原因ではない。意図が原因で指が動くというのは、錯覚にすぎないと結論する。だが、そうだろうか? 前野氏の推論では、この実験の三つの時刻の前後関係は、あくまで観察者の医師に現れた時間順序であり、当の行為者の心には直接現れていないことが見落とされている。行為者は、時計回りに動く光の点滅を見ながら、自分が意図を心に感じた瞬間をその発光と同期させる。しかし、自分の脳に電流が流れる時刻は、行為者は自分では知らない。「自分の脳に電流が流れる」のが意識されることはないからである。脳内電流の時刻を外部から観測し、意図と同期された発光時刻の報告と比較するのは、医師である。脳内電流と意図の意識は随伴関係にあるが、この随伴関係は絶対的ではなく、打ち破ることもできる。それを以下に示そう。


ここで、リベットの実験に少し手を入れて、脳内電流の時刻を「行為者自身が見る」ようにしてみよう。脳内に電流が流れた瞬間にフラッシュが光る装置を作ればよい。すると行為者は、まず(b)のフラッシュの光が見え、それから0.35秒後に、(a)の自分が意図するのが意識される。このような実験装置ならば、行為者は、(b)のフラッシュの光を見た瞬間に、急きょ天邪鬼の態度を取り、「指を曲げようと意図することをやめる」ことができる。つまり、意図するよりも0.35秒前に脳内に電流が流れるならば、電流が流れたのを即座に知った当人が、意図を「取り消す」ことができる。0.35秒もあれば、それは十分に可能であろう。これは、大森荘蔵が「予言破りの自由」と呼んだものである。


おそらくリベットはこのことを考慮していたのではないか。前野氏の本には、こうある。「私と意見が違うのは、リベット・・は、意識が最終的な拒否権を持つと考える点だ。さまざまな錯覚でだまされている意識も、最後に行動を起こすことを<やめる>と決める権利だけは持っていて、それこそが意識の主体的な役割であり行いうるタスクなのだという。一方私は・・、意識には拒否権すらないのだと考えている。」(p88) 評者は、リベットの方が正しいと思う。彼の実験では、脳内電流の時刻を行為者が知るならば、行為の意図を「取り消せる」はずだからである。前野氏はなぜ、リベットの実験が、意識の「主体性」を否定する根拠になると考えられたのだろうか。そこがよく理解できなかった。