『脳はなぜ心を作ったのか』(2)

[読書]   前野隆司 『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房、'04.11月)


「錯覚」という言葉で心身関係を表現してよいのか?


(1) 前野氏は、心が外界を表象するのは「錯覚」であると考える。「錯覚」は本書のキーワードで、「あなたが自分の意志で目の前のコップを掴む時、実は、自分が意図したと錯覚しているだけ・・」(帯)、「結果だけを見て錯覚している<私>」(p101)「指先の触覚は錯覚としか考えようがない」(139)「生き生きとしたクオリアはみな錯覚」(142)等々とある。我々の心に現れる光景を「錯覚」と呼ぶ理由は、それが物質的な情報処理の時間的・空間的位置とずれているからである。指先を針で刺されたとき、「指先が」痛いと感じるが、痛みの情報処理は脳で行われるから、「脳ではなく指先に感じる」のは空間的場所を脳から指へ「投影」した「錯覚」なのだ、と。太陽から眼まで光は8分かかるから、本物の太陽は8分の間に西へ移動しており、青空に今見える太陽の「あそこ」の場所に、本当は太陽は存在しない。だから「錯覚」だ。


(2) だが、原理的に心に登場しない物質的な情報処理過程と、心に与えられる知覚光景を比較して、前者を「本物」であると仮定したうえで、後者がそれと時空的に不一致だから「錯覚」だとするのは、正当だろうか? 古代のピュロン以来「錯覚論法」は哲学の主題であり、20世紀には、プライス、エヤー、オースティン等が精密に論じている。水に差し込んだ箸が「曲がって見える」のは、空中ではまっすぐ見え、触れればまっすぐ感じる箸と比較しての「錯覚」である。暖めた右手と冷やした左手を同時に水につければ、同じ水が、右手には冷たく左手には温かく感じる。どちらも感じられるもの同士だから、温度感覚の「錯覚性」が言える。要するに、通常の条件下では「かくかくに知覚される」ものが、別の条件下では「違って知覚される」のが「錯覚」の原義である。

とすれば、原理的に知覚されない情報処理過程と知覚光景とでは、そもそも「知覚的に両者を比較」できないのだから、後者が「錯覚」であるという規定そのものが成り立たないのではないか? 青空に見える太陽で言えば、もし太陽と同じ距離に青空があるとすれば(本当は違うが)、「今、本当の太陽は、輝いている<あそこ>ではなく、少し西の<あのあたりの青空>にある」とは言えない。なぜなら、「その青空」もまた光が8分かかって地球に到達するから、「その青空の本当の場所」も本当はさらに西の「別のあの青空のあたり」にずれることになり、かくして「見えている青空」は芋づる式に360度ずれて、結局は、ずれていないのと同じになるからである。見えているものを、見えていない空間の中に位置づけることはできないのだ。


(3) 前野氏は本書で、「自己と他者、中と外、という分け方は生命現象としてはそもそもナンセンスなのだ。・・・内と外という物質概念は現象としてみると無意味だということが分った」(57)と述べられている。これはきわめて正しく、重要な指摘である。ところが、ニューラルネットワークを「小人たち」の比喩で捉えた時(これも必ずしも間違いではない)、この擬人化によって、脳という時空的に局在する位置に、情報という物質概念を押し込んでしまった。情報というのはたんに物質的なのではなく、それが「意味」をもつから情報であるのではないか? つまり情報は、志向性、表現性をもっている。「内と外」という区別が無意味なるのは、情報のこのような性格によるのではないか。「ペン」という文字を見るとき、それはたんなるインクの染みではなく、<ペン>を意味するものとしてその染みは現れている。そのとき、では意味されている<ペン>は「どこにあるのか」とか、意味される<ペン>は錯覚ではないかとは問わない。情報のもつこのような志向的性質によって知覚を説明するならば、「錯覚」としてではない知覚光景の捉え方ができるのではないか。


(4) 前野氏は、「視覚受容器が検出しているのは、何の意味も持たない画像。<赤いリンゴ>は脳で作られた情報なのだ。「私」は、目で見るのではなく、脳を見ている、というべきなのだ」(60)と言われる。ここが決定的におかしいと思う。私はあくまで身体の外にあるリンゴを見ているのであり、「脳を見ている」のではない。これは「見る」という言葉の正当な用法からして、そうでなければならない。科学者には、「それは錯覚で、君は本当は脳を見ているのだよ」と、正常な文法を変更する権利はないと思う。「見る」という言葉は万人のものであり、科学者がその意味を決定するものではないからである。