永井均『私・今・そして神』(3)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


第1章3「50センチ先世界創造説」(p32〜39)


(1) この節は難解で論理の展開が良く掴めないが、私なりにまとめてみたい。前節では「5分前世界創造説」が有意味であるように、その条件が確定された。その有意味な「5分前世界創造説」と類比的に、空間における外界の懐疑論が可能であるかが、まず問われる。

「外界の存在を証拠立てるすべてのものが外界に実在するものに対応していない世界でも、現実には証拠立てられていない真の外界が現実の証拠立ての外に存在していて、それは証拠立て関係に入りうる、という条件である。もっと簡単に言えば、知覚がすべて偽物である世界でも、現実には知覚されていない真の外界が存在していて、それは知覚可能な外界である、という条件である。」(32)

この条件設定は、「記憶の外部に存在する過去そのもの」という前節の成果と類比的であり、『省察』の「悪霊の仮説」とはたぶん異なる「カント原理」の構図である。「知覚がすべて偽物」という想定もここでは有意味なのだ。たしかに、知覚が「すべて偽物」だとするのは、偽物と本物の区別自体を崩壊させるから、無意味だという立場もありうる。しかし、知覚の「可能的対象」としての外界を前提すれば、現実の知覚が「すべて偽物」であってもかまわない。そのような思考実験の一例として、「50センチ先創造説」が立てられる。


(2) 「50センチ先創造説」とは、目から50センチ以内は正常な知覚だが、それより遠くはヴァーチャルリアリティのような偽物の世界である。「5分前創造説」では、「この5分間」の記憶は正常だが、「5分前より以前の昔」の記憶はすべて偽物であるが、それと空間において対応する構図。50センチ先という空間的地点に、正常な知覚と偽の知覚の境界線があり、しかもその境界線はTVや映画の画面の「枠」のような非連続な境界ではなく、境界線のこちらと向うが「うまくつながっている」(35)。ここが面白いところだ。

しかし、「50センチ先創造説」は、時間との類比が厳密には成り立たないように見える。「今」が何時であるかは自分が勝手に決められることではなく、全員に一律に時計が告げる客観的事実だから、「今から5分前」は客観的な時点だ。それに対して、私の「ここ」は各人によって皆違うから、「私から50センチ先」は客観的事実ではない。

しかし、類比をまったく逆に考えて、「50センチ先創造説」の方に「5分前創造説」を引き寄せたらどうか。「50センチ先創造説」は、私が空間を移動するごとに、「つねに」50センチ先に新しいバーチャルリアリティが創造されなければならない。神も「創造の御業」に忙しく立ち働かねばならない。それと同様に、「5分前創造」を考えることもできる。つまり「今から5分前の創造」も、歴史の中の一時点で一度行われて、その後は記憶が正常に蓄積されるのではなく、つねに「自分のいる、この今」の「その5分前」の創造なのだ。だから、繰り返し繰り返し、「つねに、そのつどの今の」5分前に創造が行われる。


(3) 実を言うと、この議論にはアクロバットのようなところがある。「動く今」はマクタガートパラドックスの核心であり、永井は「5分前」と「50センチ先」という二つの創造説を軽くもて遊びながら、論理の飛躍を一気に行っている。叙述の順序として望ましいやり方とは思えないが、それは今は措く。哲学史的なライプニッツの創造説は、「一度だけの」創造であり、連続創造説はデカルトのものだ。しかし、「今から5分前」の「今」という時間規定が、マクタガートのA系列の時間規定であれば、連続創造説にならざるを得ない。「カント原理」の「可能的経験」を、可能性―現実性という様相概念と絡めて創造説に結びつけようとすれば、たしかに「連続創造するライプニッツ原理」という構図になるのかもしれない。これが歴史的なライプニッツと合致するかどうかは分らないが、何とも雄大な構想ではないか!