高橋哲哉 『靖国問題』(3)

[読書]  高橋哲哉靖国問題』 (05年4月、ちくま新書)


今回は、本書の紹介ではなく、私自身の見解を述べる。


(1) 本書の優れた考察の一つは、「靖国問題」と「日本人の非宗教性という仮象」との深い連関を指摘した点にある。江戸時代以前には仏教の熱心な信仰者だった天皇も多く、天皇神道との結びつきは決して自明な伝統ではないが、江戸後期の国学勃興から明治にかけて、近代国民国家としての求心軸として人為的に両者の結合が作られた。これは、近代国民国家の戦争遂行装置としての靖国の本質と重なる。

天皇神道という古めかしい外観を支えているのは、近代国民国家の「公的契機」なのだ。仏教やキリスト教などの信仰は「個人の問題」であり、それと、国家の公的課題としての戦没兵士追悼とは両立するとされた。この論理によって、「死者の追悼」という本来は宗教の任務であったものが、国家の課題になり、国家が擬似宗教化する。近代国家の原則である「政教分離」が、簡単でないことを示している。


(2) 超越神を信仰するという宗教性はなくても、現代の日本人に「死」が切実な問題でないわけではない。葬式や結婚式に聖職者が関与するのは、生命の誕生と死を司るからである。近代国民国家による「総力戦」は、「死」を前景に押し出した。戦争で大量死する兵士は原則として若い。天寿を全うした老人が死ぬのとは違う。若者の大量死は我々に深い悲しみをもたらし、その追悼への要求を拒むことはできないだろう。そしてこの問題は、民主主義が普遍化し、国家が民主主義的に構成されればされるほど、実は深刻化する。封建領主が恣意的に引き起こす戦争ではなく、民主的に選ばれた近代国家が遂行する戦争は、その責任が最終的に国民にあることになる。戦争での死者は、天寿による死とは違い、人為的な因果関係があるから、その責任が必ず問われ、それをどう考えるかで追悼の性格が異なる。宗教は死者一般を追悼するが、戦争による死者の追悼には、明らかに国家が本質的な契機として含まれる。


(3) 高橋氏は最終章において、靖国以外の「無宗教戦没者追悼」も大きな問題を持つことを鋭く指摘している。高橋氏は、現代日本の政治状況の下では、どのような国家的な追悼形式も「第二の靖国化する危険」があるから、国民による多様な日と場所による私的で多様な追悼の方が望ましいと述べられている(p218)。現状認識という点では私も同意見だが、しかしこれで問題が解決するわけではない。問題の根本は、近代国民国家の戦争をどう抑止するかという点にある。19世紀以来のドイツとフランスの戦争状態がEUによって乗り越えられたように、近代国民国家の戦争抑止の可能性は存在する。戦争を否定する日本国憲法は、国民国家を越える契機が孕まれているという点で、きわめて先進的な憲法であるとも言える。戦争をすぐに「なくす」ことはできないが、戦争を「減らす」ことはできるはずだ。戦没者の追悼の問題は、結局は、我々自身が戦争とどのように向き合うかに依存している。この高橋氏の結論に賛成したい。