永井均『私・今・そして神』(7)

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書


今日のゼミは、第1章8「神と脳の位階について」と9「神の数は数えられない」を扱う。大学院生N氏の力作レジュメから論点を拾う。今回で第1章は終り。6月6日は「学祖祭」なので、第2章の初回は13日に。


(1) 第1章の議論を理解するために、N氏は「識別も理解もできる」「識別できないが理解できる」「識別も理解もできない」という三つの領域に分類を試みる。デカルト省察』における、感覚、夢、悪霊という懐疑の「位階」の差や、永井の言う「低階の神」と「高階の神」、あるいは「記憶の5分前創造説」「実在過去の5分前創造説」、「ロボットに心を与える」「人間から心を奪う」等が、三領域のどこかに対応する場合もある。が、全体が三領域の区分にすっきりと収まるわけにはいかない。


(2) まず、「昨夜私創造説」が何を意味するのか、よく分らなくなった。「人間に心を与える」という三人称の創造なら神は全能だが、世界に多数存在する心の「どれが<私>なのか」は神にも分らない。だから神が<私>を創造するというのは背理なのだ。そして、そうした背理をもやってのけるのが「高階の神」だと永井は言う(66)。しかし永井は一方で、「さて、神には<私>の着脱能力があるか。これが問題だ」(65)とも述べる。この「着脱」という表現はミスリーディングというか、私を外部から見ているという点で、「開闢の奇蹟」にふさわしくない。<私>に外部は存在しないのだから、<私>は「着脱」されるようなものではない。


しかし、こうでも言わないと、「神が<私>を創造する」のイメージが湧かないことも事実であろう。だから、「昨夜私創造説」は、そこに<私>の外部かもしれない「昨夜」が登場することによって、「着脱」のイメージを借用しているともいえる。とすれば、「昨夜私創造説」は、<我々が>理解できるとも言えるし、背理だから理解できないとも言える。三領域にうまく収まらないわけだ。


(3) 結局、第1章は、「我々にとって先なるもの」であるカント原理から出発して、その理解の中に隠されている(=隠蔽されている)「開闢の奇蹟」「高階の神」へ導こうとする論述方式だ。だから、「識別も理解もできるもの」から「識別できず理解もできない」ものへ向かうのは必然なのだ。「理解できないはずのもの」を取り出してみせて、次に、それをも何とか理解させようというのが、第2章の「ライプニッツの神」なのであろう。