永井均『なぜ意識は実在しないのか』(4)

charis2007-12-22

[読書]永井均『なぜ意識は実在しないのか』(岩波、2007年11月)


(写真は、デカルトをデザインした昔のフランス紙幣)


本書の最後の章「第3日 なぜ意識は志向的なのか」には、とても興味深い議論がある。というのは、知覚そのものが志向的であるという我々の現実、すわなち、開いた目に飛び込んでくる知覚そのものがすでに根底から表象化・公共化されていることが、とてもよく捉えられているからである。写真や絵は、実物のコピーであり表象であると、我々は思っている。写真や絵は、それを実物と並べてみれば、実物に「よく似ている」表象であることがすぐ分かるからである。そして、ここで「実物」とされているのは、対象のなまの知覚のことである。


それに対して、なまの知覚はそれ自身が我々にとって究極の所与であり、それをさらに「実物」と比べることはできないように思われる。にもかかわらず、我々に見えている知覚の姿は実物そのものではなく、実物を表現する「表象」だと考えるのが、「志向性」という考え方である。
>知覚は、対象を写し、絵のように対象を再現・代理しているという側面と、媒体なしに直接的に対象に届いているという側面とがあることになります。(p133)


なぜ、そんなことが可能なのかといえば、知覚には「それが現にあるものと違う可能性」がつねにあるからである。もし知覚には、現に見える一通りの在り方しかないとすれば、知覚は実物と同一であり、知覚が実物を表現・表象しているなどとわざわざ考える必要はない。しかし、我々の知覚の在り方をよくみると、我々の知覚は実物そのものとは言い切れない「私に固有のバイアス」を帯びている。近視の私には、ものはぼやけて見えるが、この「ぼやけ」は実物には属しておらず、私の眼の水晶体のゆがみに由来する。また私は、左目と右眼では、たとえば蛍光灯の白い色の感じが僅かに違う。感じが異なる二つの白い色が見えるのだから、どちらも、それが実物と同一であることはありえない。つまり、知覚の現実をよくみると、いやでもそこに、表象・表現としての知覚と実物との乖離が含まれているのである。これは古来から「錯覚論法」と呼ばれてきた議論である。


もし私の水晶体のゆがみが少なかったらなら、ものは別様に見える可能性があり、色覚の脳機構が僅かに違えば、蛍光灯の色はまた別に見えるであろう。つまり、私の「なまの知覚」「現実の知覚」とは、多くの可能なありうる知覚の中でたまたまそうなっているという意味で「現実」なのである。このように、知覚の表象的性格(=志向性)とは、絵と実物のように二つの関係を直接比較できないにもかかわらず、私の知覚が、可能的なものの一つとしての現実的なものであるという、様相的な在り方をするところに成り立つ。こうして、知覚の志向性の問題は実は様相の問題でもあることが分かる。


>ところでしかし、表象世界もまた一個の可能世界ではないでしょうか。一般に、見間違いや記憶違いの表象内容も、一つの可能世界であるとみなすことができるでしょう。それは、間違いではない正しい知覚や記憶も実はそう捉えられているからではないでしょうか。・・・先ほどの議論で、見間違いや錯覚がありうることを認めることによって正しい知覚にも志向性があることを認めたとき、われわれは知覚における現実世界を可能世界の一つとして捉えたわけです。(p140)


永井氏のこの文章で重要なのは、「正しい知覚や記憶も一つの可能世界であり」「知覚における現実世界を可能世界の一つとして捉える」という観点である。見間違いや記憶違いは極端な場合であるが、しかし知覚の在り方でもっとも重要なことは、それが偽でもありうるのにたまたま真であるということである。けっして、絶対的に真であるのではない。つまり、正常な知覚は、たしかに現実なのではあるが、それは可能性の中の一つとしての現実性であり、そこには、「私にはたまたまそう見える」という「私の偶然性」が含まれている。つまり、水晶体の歪みや色覚の脳機構がたまたまこうである「私」が、知覚そのものの現実性に含意されている。このような仕方で、知覚の現実性そのものの中から、「私」と「世界そのもの」が分離されるとき、そのような「私」は、世界と一体となった独在的な<私>とはもはや違うものになっている。では、どう違うのか。


>見えた物がさわれなかったとしても、それは錯覚でも幻覚でもなく、たんに見えるけれどさわれない物があるだけではないでしょうか。(p129)
>知覚も知覚されるものと似ているのではなく、「同じ」なのです。(p133)

独在的な<私>は、世界と完全に一体なので、そもそも「外界」というものがなく、「外界を表象する」必要がない。しかしその場合は、もし私の左眼と右眼で蛍光灯の白さが違って見えるならば、二つの別な蛍光灯が存在するのである。それぞれの眼に見える表象が外界の一つの蛍光灯を表現するのではなく、それは即、二つの蛍光灯なのである。ということは、もし私がそうは考えないとしたら(というより、そうは考えないのだから)、そのような私はもはや独在的な<私>ではなく、表象によって「外界」を表現している多くの他者や我々の一人としての「私」なのである。


この第三章の知覚の志向性の議論を読むと、永井氏は、独在的な<私>そのものよりはむしろ、そのような<私>を消してしまう機構の解明に重点を置いているように見える。本書全体を通じて永井氏は、「私」を「缶詰」に見立てて、「缶詰を裏返す」という巧みな比喩を用いている。すなわち、「中身のない缶詰を”裏返して”、外側に広がる宇宙全体を缶詰の内部に入れてしまった」状態を、宇宙の中のどこにも私がいない独在的<私>、宇宙そのものとしての<私>に類比し、そうした缶詰を再び「表に返して」、宇宙の中の一つの事物に戻った缶詰は、複数の缶詰すなわち他者たちと同列に並ぶ「私」になる。そのような複数の缶詰の一つとしての「私」や他者の内部には、外部の事物を表象する志向性をもった「心」が必要とされるわけである。永井氏のこの缶詰の比喩は面白いが、しかし問題もあるように思われる。が、それについてはまた後ほど考えたい。[続く]