永井均『私・今・そして神』(10)

charis2005-10-03

[ゼミナール]   永井均 『私・今・そして神』(04年10月、講談社現代新書)


(写真は、「瞑想する修道士」1650年頃、フランスの画家? パリ、Collection Galerie Jean-Marie Le Fell蔵)


非常勤の大学院の演習、後期が今日から再開。院生の皆さんと久しぶりに会うのは嬉しい。永井氏の本もほぼ終りで、今日は第3章の1,2節。私的言語は不可能という通説に抗して、あくまで私的言語の必然性を論じる永井氏の議論は徹底している。知っているどの感覚とも違うある感覚を、自分だけの新しい言葉で呼ぶことは本当に不可能なのか? ウィトゲンシュタインの「記事の確かさを確かめるために同じ新聞を何部も買ってきてそれを読み比べる」(『哲学探究』Ⅰ−265)という有名な比喩に、彼は卓抜した解釈を与える。普通は、まったく同一の新聞の冊子を何部も買うという意味に解するが、永井氏は、同じ事件を扱った「別の新聞社の新聞を買って読む」(p196)という意味に取る。たとえば、大阪高裁の「靖国参拝違憲判決」を、朝日新聞産経新聞赤旗世界日報などで読み比べるわけだ。当然、紙面は異なっていようが、この差異に類比される差異が、私的感覚相互の間にもありうるというのが永井説。


私的感覚といっても、孤立的に現れたものを、ある記号が一対一で一本釣りにするわけではない。たとえば、私に「しくい」気分が現れるのは、別の「えもい」気分、「かまい」感覚、「ろましい」感情、「こじむい」味などと時間的前後関係や因果関係を伴って現れる。このような私的感覚相互のネットワーク的関係が、私的感覚そのものの「同一性と差異性」の基盤になる。だから、我々は私的言語によって、私的感覚の「ずれ」を認知できるというのが永井説(p194f.)。これは注目すべき解釈であり、アリストテレスはこれと似た議論を、『デ・アニマ』第3巻第7章で行っている(植村は『時間の本性』p98f.でそれを論じた)。「白い」と「甘い」は視覚と味覚という完全に異なる感覚であるのに、それぞれが「黒い−白い」や「辛い−甘い」のように内部の対立項のスケールの位置の差を持つという「形式の共通性」をもつ。この「形式の共通性」という「類比関係」が、異なる感覚に「同一性と差異性」の指示関係を生み出すのだ。


永井氏の解釈は、公的言語を論点先取しがちな通説的解釈とは異なって、私的感覚と私的言語がもっとも原初的な場で出会う場面を捉えようとしている。それはいわば、感覚が感覚であるままで同時に記号に変容する、もっともスリリングな地点である。一枚の絵の中には、その絵を描いている「視点」そのものを描き込むことは原理的にできない。写真の中には、その写真を撮ったカメラのレンズは写っていない。だが、ある意味では、「視点」は、その絵や写真の全体に「染み渡っている」。というのは、その絵は、その視点からのみそのような姿や形として描かれる絵だからである。このような「視点」と類比的に、私的言語は公的言語の中に、決して書き込まれることはできないが、しかしその全体に「染み渡っている」のかもしれない。このように永井氏の言語観を解釈するのも面白いだろう。永井氏は、通説がそこで話を終わらせる地点で「もう一歩問いを立てる」。この「もう一歩問いを立てる」ことが、とても困難で貴重なことなのだ。