納富信留『哲学者の誕生』(1)

charis2005-09-04

[読書]  納富信留『哲学者の誕生 −ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書、05.8.10)


ちくま新書には、田島正樹哲学史のよみ方』のような名著があるが、本書はまた違った意味で名著といえる。我々はプラトンを読むとき、そこに何か「哲学の理論」を見出そうと血眼になる。だが、プラトンの時代には、自明な学問としての「哲学」はまだ存在しない。あるのはソクラテスという「哲学者」が誕生したという事実だけだ。しかも、この「事実」は誰にでもそれと分るようなものではなかった。[写真は、「考え込むアテナ」(または「悲しみのアテナ」)アクロポリス美術館]


アテナイの寡頭派と民主派の内戦の後遺症が遠因となって、ソクラテスは刑死した。死後も続くソクラテス批判の中で、散り散りなったソクラテスの友人や弟子たちは、彼と過ごした日々を繰り返し想起し、ソクラテスは自分にとって「何であった」のか、長い時間をかけて考え、書き残した。それはある意味で、イエスの死後、長い沈黙と記憶の成熟の後に、弟子たちが別々に「イエスの意味」を書き記したのと似ている。違うのは、再現されたソクラテス像は極めて多様で、互いに対立することだ。著者はそれを「ソクラテス文学」と呼ぶ。


プラトンの対話篇は「ソクラテス文学」の一つだから、「ソクラテス文学」が書かれた歴史的、政治的、思想的な文脈の中に置かれてこそ、プラトンのテキストの哲学的な意味は正確に読み取られ、生き生きと甦る。たとえば、『弁明』『カルミデス』等は、寡頭派の三十人政権の恐怖政治という文脈に置かなければ、テキストの意味自体が理解できない。本書を読んで思うのは、ソクラテスの生きた時代、アテナイは戦争と政争とに苦しみ、異様に緊迫していたことだ。プラトン対話篇の登場人物は、ほとんど実在の人であり、物語の年代設定が政治的文脈に合致するように、きわめて正確に設定されている。現実の政治的事件を念頭に置いて読まれるように、プラトン自身が意図したからである。


たとえば、プラトン『第七書簡』のソクラテス擁護の議論を見てみよう(p195-202)。それはレオン事件を巡るソクラテスの行動であるが、反対派を殺害する最悪の恐怖政治になった寡頭派の三十人政権は、政敵レオンの不当逮捕ソクラテス他4人に命じた。ソクラテスは命令に従わなかったが、「黙って家に帰った」だけで、レオンを助けたわけでもなかった。プラトンは、ソクラテスが命令に応じなかったことを「正義」として称えるが、三十人政権下のアテナイで市民として無事に暮らしていたこと自体が「中立」ではないわけで、ソクラテスは本当に「公的政治に関わらなかった」と胸を張れるのか? 著者はこのように、「かすかな違和感」(p202)をごまかさずに、誠実に問いかける。真理をめぐる言説=哲学は、簡単にこの世に誕生したわけではない。まずはソクラテスという哲学者が誕生しなければならなかった。この「哲学者の誕生」そのものが、多様なソクラテス像がせめぎあう「記憶の戦いと成熟」としての「ソクラテス文学」から生じた。著者のこの見解は、「哲学」と実在世界の関係について、深い洞察を与えてくれる。