映画『ハンナ・アーレント』

charis2013-12-28

[映画] 『ハンナ・アーレント』 12月28日、新宿・シネマカリテ


(写真右は、イスラエルにおけるアイヒマン裁判、プレスルームでテレビモニターに映し出される裁判映像を追うアーレント、ヘビースモーカーだった彼女は喫煙が許されたプレスルームで仕事をした、彼女に扮するのはドイツの名優バルバラ・スコヴァ、素晴らしい名演で、監督のフォン・トロッタが彼女以外アーレント役はありえないと言ったのも分かる)

アーレントが、アイヒマン裁判を傍聴し、雑誌『ニューヨーカー』に『イェルサレムアイヒマン』を執筆・寄稿する約2年間あまりを、彼女に寄り添うようにして描いたのがこの映画。アーレントの論考は、「アイヒマンを免罪しユダヤ人を裏切るもの」と激しく非難され、彼女は、親しい友人たちからも非難されて孤立してゆく。とりわけ、学生時代からの盟友であり哲学者であるハンス・ヨナスに訣別され、学生時代から彼女が父のように慕っていたドイツ・シオニスト連盟書記のクルト・ブルーメンフェルトが死の床で彼女を絶縁するシーンは、見ているだけでも辛い。映画の最後に置かれている8分間通しの彼女のふり絞るような、しかし堂々とした批判への反論は圧巻だ。大学を辞めるように圧力をかけられた直後に行われた階段大教室での講義で、これが実際にあったのかどうかは不明だが、大教室は水を打ったように静まり、全員が息を呑んで彼女の一言も聞き漏らすまいと耳を傾けている。彼女の一歩も引かぬ思想家としての強靭さが素晴らしい。一歩引いたり、言い訳したり、茶化して笑いを取ったりするのではなく、真正面から「問題を提起する」ことによって立ち向かう姿勢こそ、真の思想家にふさわしい姿なのだ。アテナイの法廷におけるソクラテスや、ヴォルムスの国会で「私は今ここに立っています、それ以外のことはできません」と述べたルターの姿が重なるようだ。彼女の講義の結びの言葉を引用しよう。「“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように。どうもありがとう」


イェルサレムアイヒマン』は、その副題が「悪の凡庸さについての報告A Report on the Banality of Evil」と題されているように、きわめて問題意識の高い、真摯な、そして長大な論考である。その冒頭で彼女は、裁判の主任検事ハウスナーが世界の観客を前にこの裁判を「見世物」「芝居」にしようとしていること、その背後にいるイスラエル首相ベン=グリオンの政治的意図、ヘブライ語による法廷のやり取りをドイツ語に訳す通訳がまったく拙劣で意味が通じないことなどを、遠慮なく批判している。ユダヤ人がこの裁判に期待していたであろう“復讐”の心情とはまったく違ったトーンのこの書き出しは、雑誌『ニューヨーカー』を読み始めた読者を驚かせたに違いない。ナチの高官アイヒマンイスラエルの秘密組織モサドによってアルゼンチンから誘拐され、イスラエルに拉致されて裁判にかけられるというセンセーショナルな展開に、世界の「観客」は、アイヒマンが裁かれる「見世物」「芝居」としての面白さを期待したのだろう。だが、アーレントは講義でこう述べる。「こうした典型的なナチスの弁解で分かります。世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を私は「悪の凡庸さ」と名づけました。」アーレントによれば、ファシズムの強力な政治が人間を支配するところでは、誰もが「人間であることを拒絶する」ような行動を取ってしまうのであり、我々の誰もが状況次第ではアイヒマンになった可能性があるのだ。このようなファシズムの本質をアイヒマン裁判から読み取ったアーレントの洞察が、裁判において復讐の心情を満足させようとした人々から理解されなかったのは当然かもしれない。


しかし、そうであればこそ、最後のシーンで哲学者ハンス・ヨナスがアーレントに向かって「君はユダヤのことが何も分かっていない。だから裁判も哲学論文にしてしまう」と非難し、「やめて、疲れているの」と何度も懇願するアーレントに追い打ちをかけるように、「今日で、ハイデガーの愛弟子とはお別れだ」と冷たく訣別宣言するのは何なのか。ヨナスは、『ニューヨーカー』の論考が「哲学論文」であることをよく分かっているではないか。


あと、映画に出てくるハイデガーとの対話はやや違和感を覚えた。思考を拒否したアイヒマンと、思考を大切にしなければと説くアーレントの対比はよく分かる。事実、彼女の哲学の師ヤスパースは、「この本は全体として思考の独立性のすばらしい証言です」と述べて、『イェルサレムアイヒマン』を擁護した。しかしもう一人の師であり彼女の恋人であったハイデガーは、映画でこう述べている。「思考したところで、行動する力を与えられるわけでもない。・・・我々は思考する。我々は考える存在だからだ。」ハイデガーがどこかで実際に述べたのかもしれないが、この映画のこの文脈では、ハイデガーの発言は意味不明でよく分からないし、どこか取って付けたようで、ハイデガーとの恋愛は多くの観客が期待するからという理由で、無理に挿入されたのではないか。アイヒマン裁判の時点では、アーレントハイデガーの恋は知られていなかったこともあるが、内在的な繋がりが感じられないままの挿入には問題があるだろう。


最後に、映画館で感動した彼女の言葉を一つ引用。「凡庸な悪は、根源的な悪とは違うの。あの悪は極端だけど、根源的ではない。深く、かつ根源的なのは善だけ。」これはプラトンアリストテレスの一番根底にある思想です。「悪」はどんなに極端であっても根源的ではない。根源にあるのは「善」である、と。


You Tubeに映像がありました。
http://www.youtube.com/watch?v=qnLQ9rNNHCk