納富信留『哲学者の誕生』(2)

charis2005-09-05

[読書]  納富信留『哲学者の誕生 −ソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書、05.8.10)


本書第6章は、「日本に渡ったソクラテス」と題して、日本におけるソクラテス受容の問題を扱う。ソクラテスは明治初期には、知行合一を唱えた王陽明と重ね合わせて好意的に迎えられた。書物を一切残さない「知識よりは実践の人」が、「聖人」風に受けたのかもしれない。だが、こうした受容のバイアスには大きな問題がある。[写真は、レンブラントホメロスの胸像を見つめるアリストテレス」、メトロポリタン美術館。宝石を散りばめた華美な服装は、ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』の伝承に拠ったか。アリストテレスは流行に敏感なミーハーだった?]


昭和初期に、現象学者の高橋里美はソクラテスを「無知の知」の哲学者、「自分が何も知らないことを知っている」ことが、ソクラテス哲学の核心であると紹介した。それ以降、このソクラテス像は非常に好評で、専門のギリシア哲学研究者も含めて、現在までこの理解は続いている。だが、「無知の知」は、プラトンのテキストに一箇所も言及がなく、ソクラテスの理解としては誤りなのである。ソクラテスは、「知らないことを知る」ではなく、「知らないことを、知らないと思う」と述べた。「知の知」の不可能性を論じた『カルミデス』の結論からしても、「無知の知」は、ソクラテス哲学に存在しない。「知(エピステーメー)」と「思い(ドクサ)」を混同してはならないし、現代風の「暗黙知」や「無意識」を読み込むことも、ソクラテスについてはできない。


とはいえ、「無知の知」という誤解はキケロから始まっており、クザーヌスの「無知の知」の影響もあるので、日本人の無理解だけを責めるわけにもいかない。しかし、禅問答のような簡素な単純性を尊ぶ我々日本人は、美しいキャッチフレーズに弱いという特性がある。仏教の受容に際しても、厳密な理論よりは、仏像の美しさやお経の響きに感嘆し、意味も分らぬサンスクリット文字を「梵字」として絵画的にありがたく拝んだのが、我々日本人である。著者は、「耳に心地よいキャッチフレーズに、私たちが無反省に寄り掛かってきた」ことを、自戒を込めて批判する(277)。


その他、ソクラテスが人気を博するまでの、通俗的なエピソードも面白い。「悪妻クサンティッペ」「太った豚よりも、痩せたソクラテスとなれ」「悪法も法なり」等は、一般人のソクラテス像と深く結びついている。いずれも実際のソクラテスにない虚像であるが、不正確な「標語」もそれぞれ一定の役割を果たしてきた。2400年前にアテナイで死に、死後は人々の記憶の中にしか存在しない人物ソクラテス。しかし彼は、地球の裏側に住む21世紀の我々の心の中に、確かに生きている。この、何とも不思議で喜ばしい感覚を、本書はあらためて蘇らせてくれた。