新訳『ロミオとジュリエット』(2)

charis2005-08-23

[読書] 河合祥一郎訳『ロミオとジュリエット』('05,6 角川文庫)


河合訳から、気に入った箇所をもう一つ。1951年の福田恒存訳も。第二幕2場、有名なバルコニーのシーンより。(写真は、1935年、New Theatre、ギールガッド演出、ローレンス・オリヴィエのロミオと、ペギー・アシュクロフトのジュリエット。) ジュリエットのロミオ(=モンタギュー)への、真情あふれる告白。


ね、すてきなモンタギュー、私、もう、あなたに夢中なの。
だから、軽い女に見えるかもしれない。でも、
信じて、ね、つんとした振りをしてみせる女より、
私のほうがずっと真心があるわ。
そりゃ私だってもっとよそよそしくしていたかったけど、
あなたに聞かれてしまったんだもの、知らないうちに、
私の本当の恋心を。だから、許して。
こうしてあなたになびくのを、浮気な恋だと思わないで。
夜の闇がさらけだしてしまったんだもの。 (河合祥一郎訳)


ロミオ様、本当に私は愚かな甘い女、だから、さぞかし
蓮葉な浮気女とお思いになっていらっしゃることね、きっと。
でも、本当、私きっとなってみせますわ、あの手練手管で、
殊更よそよそしくみせる女などよりは、もっともっと真実のある女に。
本当の話、私だって、恋しい心の思いの丈を、
すっかり知らぬ間に立ち聞かれていなければ、
もっとつれなくしてみせたと思うわ。だから、お責めになってはいや、
こんなに心をお許ししたことも、悪戯心とはおとりにならないで、
だって、暗い夜の悪戯が、つい明るみに出したことなのですもの。
                         (福田恒存訳)


名訳の誉れ高い福田訳であるが、ジュリエットがロミオに対して敬語を使っているのが気になる。原文の英語には、男言葉や女言葉の違いも、敬語もない。二人はあくまで対等なはずだ。「ロミオ様」の原文は、fair Montague だから、「様」は訳者の付加にすぎない。他の分野はともかく、シェイクスピア解釈者として福田恒存が特に「反動的」だったわけではなく、当時は、ジュリエットが「ロミオ様」と呼ぶのが自然に感じられたのだろう。時代の落差を感じさせる。それと、この箇所は、その少し前で、ロミオがジュリエットの要請に答えて、「敵の家名を引きずるロミオやモンタギューという名前は捨てよう」と言ったのに、やはり彼女はそれらの名前で呼んでしまう箇所である。だから、「ロミオ」や「モンタギュー」という言葉は、忠実に再現するべきだと思う。「様」を付けやすいから、「モンタギュー」を「ロミオ」に変えたのなら問題だ。


美しい科白ばかりでは片手落ちだから、もう一箇所。この作品は、ジュリエットの純愛を際立たせるためだろうか、全編に驚くほど卑猥な科白が溢れている。どちらでもいい瑣末な箇所も、わざと卑猥になっている。例えば、第二幕4場、通りをやってくる乳母と召使を見つけたロミオとマキューシオの会話。


「A sail, a sail !」「Two, two : a shirt and a smock. 」
「船ぢゃ船ぢゃ」「二艘二艘。男襦袢(をす)と女襦袢(めす)ぢゃ」(逍遥訳)。
「船は二艘。猿股に腰巻だ」(福田訳)。
「二艘だ、パンツ号とパンティー号だ」(小田島雄志訳)。
「二隻、二隻だぜ、男と女」(松岡和子訳)。
「二艘だ、二艘だ。シャツ号とシミーズ号だ」(河合訳)。


比べてみると、福田訳と小田島訳は”意気込み”を感じさせる意訳だが、訳し過ぎ。しかし松岡訳では物足りない。原文のshirtとsmockは、男用の下着のシャツと、女用の下着のシュミーズを意味する。「襦袢」と訳した坪内逍遥訳は見事。和服の下着「襦袢」はポルトガル語gibaoから作られた和製外国語「ジバン」だから、シェイクスピアの訳語として先祖帰りしたわけだ。そして、河合訳が逍遥以来百年の歴史を経て、原文を一番正しく再現していることが分る。