[ゼミナール] 永井均 『私・今・そして神』 (04年10月、講談社現代新書)
(挿絵は、永井氏の本の冒頭にある「絵日記」。子供のとき永井氏が描いたものとされている。この「絵日記」の意味は、下記参照。)
本書の最後、p204−223へのコメント。本書を真剣に読むと、眩暈がするというか、気が遠くなる感じがする。哲学の一切の問題をそこに収斂させようとする「開闢」の地点。そこは、しがみつこうとしても風圧で吹き飛ばされる。ウィトゲンシュタイン『哲学探究』のカブトムシの箇所を、「それぞれに違うものが入っている」ではなく、その後に続く「それが絶えず変化していると想定することさえできよう」に重点を置いて読むところが鋭い。「人々の箱の中身の違いは誰にも分らないが、私の箱の中身の変化は分る。」(208)
これは驚くべき発想だ。クオリアとそれを呼ぶ名前との結合が、そのつど毎回新しく命名される場面では(これが「開闢」ということである)、「クオリアの変化」について、どう語ればよいのだろうか。一見すると、何の問題もなく「赤い色が青い色に見えるようになった」と言えばよいように思われる。だがこれは、TVの画面などで知覚の変化が現に生じている場合に、そこではクオリア命名の儀式は不要であり、見えているクオリアの名前はすでに決まっているという前提がある限りにおいてである。しかし、今はそうではない。眼前のクオリアにそのつど名前を付けるという儀式を経なければ、それを「ある名前で呼ぶ」ことが許されないのである。だから、クオリアが変化したように感じられても、それを「語る」ことはまだできない。それゆえ、TVの画面のようなものではなく、「朝起きてみたら」色が違って見えるという体験、睡眠によって意識の切断がある場合の方が、問題は鮮明に捉えられる。そのつど命名に悩むような場面が、時間版カブトムシ論なのである。
だが我々は普通、眼前に現れた新しいクオリアを何と呼ぶか、命名に悩んだりしないのではないか? 過去の記憶があるから、「ああ、このクオリアは僕がいつも<青い>と呼んでいるあれだ」と自動的に認知され、それに従って「赤い色が青い色に見えるようになった」と言えるのではないか。――なるほど。しかし、クオリアの記憶の正しさを保証するものはないのだ。過去のクオリアは、もはや存在していない。したがって、そのクオリアをどんな名前で呼んだか、その結合を、今、我々の前に示すことはできない。
よろしい。では、記憶ではなく過去に描いた「絵日記」を参照しよう。(ここで、永井氏の本の冒頭にある絵日記が生きてくる!)絵日記には、クオリアとそれを呼ぶ名前との両方が一緒に書かれている。だから、記憶では不可能な、過去におけるクオリアと名前の結合が再現できる。すると、今は私が「赤い」と呼んでいるクオリアを、昔私は「青い」と呼んでいたという「恐ろしい事実」が判明することもありうる。つまり、クオリアが変わったのではなく、それを呼ぶ名前が、つまり命名が逆転することもありうることが分る。
うーむ、なるほど。絵日記を持ち出す意図は分るような気がする。だが、この絵日記は今我々に見られている以上、この絵日記のクオリアは、昔それを描いたときのクオリアではなく、今見えているクオリアである。だから、昔セーターの位置にあったクオリアを「赤い」と呼び、ズボンの位置にあったクオリアを「青い」と呼んだことは絵日記から確認できるが、しかしその時点で、セーターやズボンがそれぞれどのようなクオリアに見えていたかは、この絵日記からは分らないのではないか? たとえ過去の絵日記であっても、それが示すのはつねに現在のクオリアであり、過去のクオリアではない。とすれば、絵日記の例からは、必ずしも命名の逆転がうまく示されたようには思えないのだが・・・。それとも、命名の逆転がうまく示せないということこそが、私が私の「この言葉」に閉じ込められていることを物語っている(221)、つまり、「歯車は回転するが、機構全体とは繋がっていない」にもかかわらず、そのような歯車が機構に先立つ真理=「開闢」であるということなのだろうか。おそらくこれが永井氏の主張なのだと思う。(本書のコメントはこれで終わります。今日まで付き合ってくれた6人の院生の皆さんありがとう。)