RSC『夏の夜の夢』

charis2005-12-17

[演劇] ロイヤル・シェイクスピア・カンパニ公演『夏の夜の夢』 東京芸術劇場・中ホール(マチネ)


(写真は、頭だけロバにされた機屋のボトム)


グレゴリー・ドーラン演出は2000年のRSC『マクベス』以来、観るのは5年ぶり。全体の印象は、黒を基調とした“地味な舞台”。科白を大切にしていることは分るが、夢幻的・祝祭的な「盛り上がり」にやや欠ける。99年にコクーンで観たルドルフ・ジョーボ演出は、ポーランドシェイクスピア学者ヤン・コットの影響が強かったので、性をグロテスクなまでに強調する舞台だった(妖精は皆SM風で、セーラー服の女子高生もいた)。それに比べると、今回は“エロスの解放”をほどよく抑えた“穏やかな”演出なのだろう。観客にはイギリス人らしい子供が何人もいた。


この作品は、(1)へレナやハーミアを中心とする結婚話のもつれ、(2)ボトムらの素朴な職人たちの劇中劇としての笑劇、(3)妖精の王オーベロンとタイテーニァの夫婦喧嘩と妖精パックの魔法の悪戯という、本来は相互に無関係な三つの物語が同時に進行する。舞台の人間たちには妖精は見えず、妖精の「介入」を最後まで知らないのだから、全体を「統一」するのは観ている観客の想像力なのだ。ドーランは演出ノートで、この三つの要素を分離して、それぞれ別に舞台稽古をしたと述べているが、たしかに三つの要素の違いがよく分る。が、(3)の妖精たちの夢幻的・祝祭的な「祭り」がもう少し盛り上がらないと、三つの要素が全体として統一されないように思う。(3)を基調として、全体が重層的に重なる「入れ子型の夢」になってこそ、人間も妖精も愛や結婚は「一抹の夢」であるという側面が見えてくる。


今回の舞台は、(2)のボトムらの笑劇がきわめてリアルで生彩に富んでいたので、その分、夢幻性・祝祭性が減殺されたように見える。『夏の夜の夢』は、貴族の結婚式の出し物としてシェイクスピアが書いたと言われ、愛と結婚を「寿ぐ」祝祭劇ではある。だが、ヤン・コットが強調したように、結婚という「制度の暴力性」を前にした「エロスの根源的苦悩」という要素があることもたしかだ。そもそも幕開けの冒頭からして、アテネの大公とヒポリタの結婚は「力づく」のようだし、娘ハーミアを自分の意のままに結婚させようとする父イージアスは、最初から「死刑か修道女か」と恫喝する。また一方では、妖精は「子供を作れない」から、妖精の王オーベロンと王妃タイテーニァの夫婦は、人間の「もらい子」(さらい子?)を巡って争う。その子供に、ドーランは文楽に触発されて人形を用いたのは面白い。この作品は、祝祭性の陰に結婚制度の「暴力性」という棘を隠しているが、それを含めて全体を楽しい祝祭劇に「昇華」するのは確かに至難の業なのだ。


HPを見ると、RSCは今、本拠で『十二夜』をやっているし、今年は『お気に召すまま』もあったようだ。こちらも観たいものだ。今回の舞台写真は↓
http://www.natsuyume.jp/nights_dream/index.html