永井愛『やわらかい服を着て』

charis2006-06-09

[演劇] 永井愛『やわらかい服を着て』 新国立劇場小H


(写真は、2003年2月16日、イラク戦争に反対する世界同時デモを報じる翌日の朝刊を見入る、NGOの若者たち。「ねぇ、見て見て、世界中で1000万人以上だって。日本は渋谷に5000人か、もっとたくさんいたよねぇ?」「うーん、客観的にはそんなかなぁ。」左から2番目が、ヒロインの新子(しんこ)を演じる小島聖。中央がリーダーの一平を演じる吉田栄作。吉田はこれが演劇初舞台。)


永井愛が、昨秋の『歌わせたい男たち』に続いて、イラク戦争に反対する若者を新作に描いた。君が代イラク戦争という重いテーマを「喜劇」で表現することは、アリストパネスブレヒトに通じる試みだが、本作は彼女の傑作『僕の東京日記』によく似た青春劇でもある。『東京日記』は、60年代末の学園闘争に「巻き込まれてゆく一般学生」の真摯さと未熟さと滑稽さを愛情込めて描いた喜劇だった。昨日まで政治に無縁だった若者男女の、ぎこちない「決意表明」や「シュプレヒコール」が可笑しくて可笑しくて、大笑いしながら、その余りの切なさに思わず涙がこぼれたことを思い出す。本作もまた、滑稽であればあるほど切ないという、笑いと涙が表裏一体になったチェホフ的な小世界だ。たった9人の小さなNGOの事務所に集う若者たちは、その昔「ノンポリ・ラディカル」「ノンセクト・ラディカル」と呼ばれた若者の息子や娘たちの世代。しかも明らかに女の子の比重が高まり、そのぶん精彩が増した。


物語は、NGO「ピース・ウィンカー」の事務所。つぶれた町工場の一室を借りている。メンバーは、大手商社に勤める若者や大学生など、さまざまな男女。2003年2月、イラク戦争開戦直前、日本の世論も戦争反対が多く、活動は盛り上がっているが、しかしアメリカの攻撃を「想定」してその先の運動を考えようという「現実論」と、それはおかしいという「理想論」とが対立する。次は、2004年4月、誘拐された3人の日本人の救出をめぐって、日本の世論は「自己責任論」が高まり、運動は逆風に晒される。そして、2005年9月、ヨルダンの難民キャンプで活動してきたメンバー二人(新子とその恋人)が事務所に帰ってくる。リーダーの一平は大手企業をやめてすっかり貧乏になり、アパートの電気も止められて、自分が「難民化」してしまった。驚いた新子は、必死に一平を支えようとするが、それがマッチョで素朴な恋人の純也の怒りを呼び起こす。


そして2006年3月。活動の中心は、イラク難民の子供の医療支援のためのチョコレート販売だ。バクダッドで白血病で死んだ少女ラナちゃん(実話)が書いた絵入りのチョコレートを、一個500円で売る。そんなことをして何になるという、冷笑的な声もあるが、利益400円は、イラク難民の子供の薬品2回分に相当し、子供の命を救うことに、メンバーは自分たちの運動の意味を見出している。政治運動の有効性という点では、NGOの活動は無力だったように見える。だが、彼らの行為の意味は、まだ完結していない。アメリカ本国でもイラク戦争の不当性の認識が高まり、ブッシュやラムズフェルトの高笑いはもう聞こえない。だが、この小さなNGOは別の試練を受けることになる。


それは、リーダーの一平と事務局長的な役割の新子との間に芽生えかけた、淡い恋愛感情、愛ともいえない愛が周囲に与えた「誤解」である。一平には婚約者の千秋(宝塚出身の月影瞳)がおり、千秋は大手商社のOLを続けながら、NGOのメンバーでもあるが、怜悧な現実主義者で、どこか冷たい。このドラマでもっとも印象的なことは、運動の路線をめぐって対立する各人の本音が、通常は必ずしも正直に表現されないのに、恋愛問題を非難できるとなると、それを非難する口実として路線問題をみなが持ち出すことだ。


誰にも強制されない自由意志で成り立つNGOというサークルで、男女関係とそうでない「同志的」関係をどう調和させるかは難題だ。一平と新子は、本来は同志的な関係だが、その親密さが周囲には恋愛に見える。だが二人は恋愛感情を深く封じ込めて、相手に対してそれを表現しない。観客は、二人のそれぞれの恋人にはあまり感情移入できないので、この二人こそ一緒になればよいのにと密かに期待する。でも禁欲的で献身的な二人はピュアな関係で、そうはならない。にもかかわらず、メンバーからはそうは見られずに、不審と猜疑が生じる。この切なさは、NGOの命運と一体のものだ。一平はついに、「ピース・ウィンカー」の解散を宣言する。だが、解散の前に、難民キャンプの報告会だけはちゃんとやろうということになると、皆は生き返ったように明るい表情で、円卓について企画会議を始める。その嬉しそうな表情。そこに一抹の希望を我々は見出す。