シェイクスピア『ヘンリー五世』

charis2018-05-31

[演劇] シェイクスピア『ヘンリー五世』 新国立劇場 5月31日


(写真右は、フランスのキャサリン王女に求愛するヘンリー五世、写真下は舞台、支配階級である王や諸侯(貴族)、中級兵士、下級兵士などがそれぞれとても個性豊かに生き生きしている、兵士たちが話すウェールズ語アイルランド語など「方言」も楽しい)



戯曲を読んだ段階では、対話部分はとても面白いが、演劇的な盛り上がりに乏しい作品という印象をもった。クライマックスであるアジンコートの戦いも、原作には戦闘場面は一切ない。対立や葛藤が劇の進行とともに高まり、それが劇的に解決されるという全体構造でもない。しかし実際の舞台は非常に面白いものだった。何よりも人物造形が細部にわたって優れており、「人間の生きざまを見る楽しみ」という演劇への欲求に十二分に応えるものだった。英仏百年戦争をフランス優位からイギリス優位へと逆転したヘンリー五世は、非常に魅力的な人物であることがよく分かる。私はどこかハムレットに似ているように感じた。一面では、ハル王子がそうであったような、竹を割ったような直情径行型で体育会系の熱血青年、他面では、非常に内省的・思索的な資質の、両方を持ちあわせている。ちょうど、レアティーズは前者、ホレーシオは後者で、ハムレットは両面を持っているように。そして、政治的判断力、政治的決断力に非凡なものが感じられる。フランス軍突撃の情報を得て、直ちに捕虜の処刑を命じるのはそれで、戦争遂行中の王としては、まことに正しい行為である。そしてもっとも重要なのは、味方を説得し、励まし、強固な意志と力をもつ組織を形成する指導者としての能力である。アジンコートの戦いでは、ヘンリー五世の感動的な演説によって、劣勢だったイギリス軍の士気が高まり、4倍の人数のフランス軍を破ったというのは、たぶん史実なのだろう。ジャンヌ・ダルクも同じような、ずば抜けた資質をもつ指導者だったと言われるが、百年戦争は、両国に優れた指導者を生み出したということだろう。それはともかく、この劇でもっとも面白く感じたのは、フランス人は片言の英語で、イギリス人は片言のフランス語で、ぎくしゃくした会話をする多くの場面である(写真下は、王女キャサリンに必死で英単語を教える侍女アリス、その下は、結婚したヘンリー五世とキャサリンだが、前者はほぼ英語しか後者はほぼフランス語しかしゃべれないので、コミュニケーションは難しい)


1066年のノルマンディ公ウィリアムのイギリス征服以来300年以上にわたって、イギリス国王はすべてフランス人であり、上級支配層もフランス語を母語としている。ヘンリー五世が、英語しか話せない初めてのイギリス王と言われているから、かなり長期間イギリスの支配層はフランス人だったわけだ。とすれば、英仏百年戦争とは誰と誰が何をめぐって戦ったのか、考えてみれば不思議な戦争だ。『ヘンリー五世』のクライマックスは、最後にヘンリー五世がキャサリン王女に求愛する口説きの場面だと思う。よくあるタイプの口説きではぜんぜんなくて、両者の対話が不器用なだけでなくひどくこんがらがっており、ヘンリーの口説きも上手いとはいえない。なぜなのか不思議だったが、しかし考えてみたら、この結婚は戦勝国イギリスに対する敗戦国フランスの降伏条約の一部であり、キャサリンがヘンリーの妻になるのは、要するに人質に取られるわけだから、キャサリンには断る自由はもともとない。だから普通の口説きの会話にはならないわけだ。イギリスが初めてフランスに対して優位になっただけでなく、イギリス本国内で、英語がフランス語に対してヘゲモニーを奪うというのが、まさに史劇『ヘンリー五世』の歴史的コンテクストの中核なのだ。このコンテクストの理解がないと、『ヘンリー五世』は演劇として十分に観賞できない。とすれば、コンテクストを共有しない現代日本人に、日本語で上演する今回の舞台が、ここまで面白く見られるということは、演出も役者も非常に優れていることが分かる。兵士たちも、ウェールズ語アイルランド語などさまざまな「方言」でしゃべるので、その面白さも『ヘンリー五世』の重要な要素になっている。