入不二基義『ウィトゲンシュタイン』(2)

charis2006-06-13

[読書] 入不二基義ウィトゲンシュタイン』(NHK出版、5月30日刊)


(写真はウィト氏。入不二氏の愛猫キド氏と「家族的類似性」ありという説あり。ところでこの写真の背景は何でしょう? まさか彼の授業の板書では。どなたかご存知ですか?)


青色本』を中心とした中期ウィトゲンシュタインの哲学は、興味深いテーマではあるが、やや専門的なので、ここでは『哲学探究』を中心とする後期哲学の部分、本書の第3章を紹介する。「言語の規則」と「感覚日記」が主要論点。「言語」とは、文法や、その他さまざまな規則に従う記号体系であるが、そもそも「規則に従う」とはどのようなことなのか。問題はここから始まる。


たとえば、小学校でよくある算数の虫食い算を考えてみよう。「2,4,6,(?),10,12,・・・」という問題に、「8」と書けば○をもらえる。だが、ある生徒が「7」と書いて×をもらった。その生徒は先生に抗議する。「7も正しい答えです」。先生「規則に従ってないじゃないか」。生徒「いいえ従っています。2,4,6,7,10,12,2,4,6,7,10,12,2,4,6,7,10,12,・・・という規則です」。たぶん先生は○をくれないだろう。もし「7」を認めるならば、空欄にどんな数字を入れても正解になるからだ。この生徒のように並べれば、どれも立派な「規則」として通用する。


ここには、「規則に従う」ということと、「さまざまな規則がある」という事実との間にある、重要な哲学的問題が示されている。我々は普通、「さまざまな規則がある」から、「規則に従う」ということが何であるかを理解できると考えている。しかし実際は逆なのだ。我々は「規則に従う」ということを先に理解しているからこそ、「さまざまな規則がある」ことを理解できる。上の虫食い算の例は、まさにそのことを示している。入不二氏は、我々が「規則に従う」ことを「原事実」と呼び、それは「さまざまな規則がある」という「事実」に先立つと言う(p99f)。『哲学探究』§242は、規則についての我々の通常の「見方を変更する」、決定的な箇所なのだ。


規則をこのように捉えることは、言語と「私」についての重要な洞察をもたらす。それが「感覚日記」論である。ウィトゲンシュタインは、私だけに理解できる「私的言語」はあるだろうかと問う。たとえば、ある感覚を感じたときに、それを「E」という記号で呼ぶことに決める。この取り決めは私しか知らない。そして、次にまたその感覚を感じたら、「今日、Eを感じた」と日記に記す。すると、その感覚と記号「E」との結合は、私だけの「規則」だから、「われわれの言語」の「規則に従わない」、「私だけの言語」が成立したように見える。


ウィトゲンシュタインは、『探究』§258で、感覚と「E」との結合について、「正しい結合」を「そうでない結合」から区別する「基準がない」とだけ述べて、感覚日記について否定的に捉えているように見える。さて、問題はここから先である。多くの解釈者は、この箇所を、ウィトゲンシュタインは「私的言語」を否定したと受け取った。が、入不二氏は、感覚日記はそもそも「私的言語」ではないから、これは「私的言語」の否定ではないと解釈する(p109)。その理由は、「規則に従う」ことの根源性である。「感覚日記」はすでに「感覚」という「われわれの言語」で語られており、記号「E」は「感覚」に付けられた名前である。だからすでに、「感覚E」は「われわれの言語」の「規則に従って」おり、「私的言語」ではない。ちょうど、虫食い算で「7」を入れた場合、先生は「規則に従っていない」と言ったが、生徒の「規則に従っている」という発言が正しかったように、どんな感覚を「E」と呼ぼうと、「E」が「感覚の名前である」以上、それは明らかに「われわれの言語の規則に従っている」のであり、「われわれの言語(言語ゲーム)の圏内にある」(p112)。


もし仮に、「われわれの言語」に回収されることをどこまでも拒もうとすれば、まったく無意味な発音をするか、何も言わないか、どちらかになる。とはいえウィトゲンシュタインの感覚日記論は、「私的言語の不可能性」を断定したものでもない。「私的言語」という言葉はすでに「われわれの言語」の内部にあるから、それは、「われわれの言語」の外部にある何かを指示することはできない。逆に、もし仮に「私的言語」が「われわれの言語」の外部に存在するならば、それについて「われわれの言語」で語ることもできない。いずれにせよ、「われわれの言語」によっては、「私的言語」の「可能性も不可能性もともに語ることができない」(p116)。このようにして、「私」あるいは「私的なもの」は、言語ゲームにおいて、けっして「ぴたりと言い当てられることがないままに、・・・言語ゲームに潜行伴走し続ける」(p118f)というのが、入不二氏の結論。