プラハ室内『フィガロの結婚』

charis2006-06-20

[オペラ] プラハ室内歌劇場『フィガロの結婚』(なかのZEROホール)


(写真は、舞台より。)


マルティン・オタヴァの演出が冴えている。『フィガロ』の持つコミカルな要素をクローズアップした効果と、現代衣装によるスタイリッシュな舞台が美しい。たとえば、ケルビーノが誰よりも背高のっぽなので、スザンナの「私と同じ背丈ね」も、アントニオの「もっと小さかったぞ」も、フィガロの「俺は縮んだのだ」も、台詞がぜんぶ嘘になって笑いを誘う。原作のボーマルシェの演劇版(コメディフランセーズ公演)では、ケルビーノは本当に小さな男の子が演じていたので、モーツァルトのケルビーノは、キャラが大きく変わっていることが分かる。


マルチェリーナは、短めのスカートで服装からして"飛んでいる"し、スザンナと伯爵夫人の呼吸がよく合って、コミカルな線が切れずにつながる。だが、召使のスザンナと伯爵夫人を親友のように描くことには問題もある。階級差が見えなくなり、伯爵夫人にあまり「品格」が感じられないので、陰影がやや乏しいものになる。考えてみると、この物語は、スザンナ、マルチェリーナ、バルバリーナと「強い女」のオンパレードなのだが、伯爵夫人だけは、二つのアリアからも分かるように、「悲しみに耐える」優美な女性という側面がある。だから、伯爵夫人がガンガン自己主張すると、全員が「強い女」で足並みが揃ってしまうのだ。


演出で感心したのは、第4幕で、スザンナが伯爵夫人と服を取り替えるシーン。この衣服の交替だけは、原作が不完全なのでいつも演出家が苦労する箇所だ。フィガロは、スザンナが伯爵と密会することは知っているが、彼女が伯爵夫人と服を取り替えることは知らない。だから、スザンナのアリアのシーン、伯爵夫人の服で出てくると、それがスザンナだとフィガロには分からないはずなのだ。今回は、スザンナがアリアを歌いながら服を少しずつ脱いで、舞台の袖から手だけ出している伯爵夫人に、一つ一つ渡してゆく。だから、次に伯爵夫人が白い花嫁衣裳で現れた時には、スザンナの服と取り替えたことが、誰の目にも自然に分かる。全体として、物語を「一目見ただけで分かる」ように提示したのは、旨いやり方だ。


舞台は、衣装もセットも白を基調としているが、これが非常に美しい。白を基調にしながら、幕によって、赤、黄、緑などの色彩が人の衣装や照明によって、パレットの絵の具のように浮き出すので、そのシンプルな対照が目にしみる。歌手は、伯爵夫人の声量がややバランスを欠いて大きすぎる。しかし、ケルビーノ役は23才、スザンナも20代半ばと、ソプラノ陣が初々しいのがよかった。