モーツァルト『イドメネオ』

charis2006-10-22

[オペラ] モーツァルトイドメネオ』 新国立劇場


(写真右は、今回の舞台。オーソドックスな演出で、中央がポセイドンの像。写真下は、バルセロナ歌劇場公演『イドメネオ』(’06,3月)。現代風の演出で、トロイ側の捕虜をギリシアの兵士が監視している。前に座っているのは捕虜となったトロイの王女イーリア。)


モーツァルト24歳の作で、本格的なオペラ作曲の転機となった作品。ギリシア神話を基にした「オペラセリエ(厳粛な歌劇)」。オペラセリエは、『皇帝ティト』にも言えることだが、現代の我々にはぴんとこない古めかしさがあり、普通に上演したのでは退屈な感じが否めない。それで、さまざまな奇抜な演出が試みられる。例えば、上記写真のバルセロナ歌劇場公演はアルカイダの捕虜のようだし、今年の9月、ベルリン・ドイツオペラは一旦「イドメネオ」の上演中止を発表してニュースになった。イスラム教の預言者ムハンマドの切られた首が出てくる場面があり、ドイツ人ローマ法王イスラム教批判発言(?)に対する反発の余波を恐れたという。ムハンマドだけでなく、仏陀やキリストの首まで登場させる演出だそうだが、「イドメネオ」の作品そのものには、さすがにそこまでの必然性はない。今回の新国立劇場版は、ドイツの演出家グリシャ・アサガロフによるものだが、原作に忠実で、奇を衒うところのない演出。


物語は、古代ギリシアクレタ島の王イドメネオが、トロイ戦争に勝って故国に戻るところから始まる。故国では、イドメネオ国王の息子イダマンテ王子が留守を守っており、そこには捕虜となったトロイの王女イーリアと、アルゴスの王女エレクトラもいて、二人の王女はそれぞれイダマンテ王子を秘かに恋している。一方、イドメネオ王は帰国寸前に嵐に会い、海の神ポセイドンに「陸に上がって最初に遭った人間を生け贄にささげる」と約束して助かる。ところが、上陸して最初に遭ったのが息子のイダマンテ王子。イドメネオ王は、この約束を秘密にして、生け贄の儀式をぐずぐずと引き伸ばしたために、ポセイドンは怒り、国は乱れる。一方イダマンテは父の不可解な行動に疑心をつのらせ、二人の王女との関係もうまくいかない。ついに息子を生け贄にすることに決めたイドメネオ王が、王子の首に刀を振り下ろした瞬間、イーリア王女が駆け寄り間に割って入る。そこに奇蹟が起こり、ポセイドンが現れてイドメネオ王を赦し、イダマンテ王子が王位を継いで、イーリア王女と結婚する。このような「機械仕掛けの神」による一発逆転によって、めでたしめでたしの解決の中、失恋したエレクトラ王女は狂乱の絶叫をして去る(モーツァルト自身は、このエレクトラ狂乱をカットした)。


イドメネオ』は、モーツァルトが上演や再演時に何度も直したので、決定稿が分からない作品だが、筋は、たわいもないお話だ。息子の生け贄というモチーフには、旧約のアブラハムの物語が重ねられているのだろう。父子の葛藤というテーマが底流にあり、当時のモーツァルトと父レオポルドの反発関係が影を落としていると解説されている。そうなのかもしれない。が、息子のイダマンテ王子をメゾソプラノの女性が演じるので、どうしても男性性が弱くなり、鋭い葛藤が感じられない。『皇帝ティト』でも、メゾソプラノが男性のアンニオを演じるので、男性のキャラが弱くなった。モーツァルトの時代には男性のカストラート歌手が演じた役だが、メゾソプラノがやると何かが違ってくるのではないか。『フィガロ』のケルビーノや、『バラの騎士』のオクタヴィアンのように、もともと”倒錯性”を楽しむように創られたキャラなら別だが、イダマンテや『ティト』のアンニオはそうではないのだから、何となく鋭さを欠いた印象を受ける。今回の舞台では、イーリア(中村恵理=下の写真左)やエレクトラ(エミリー・マギー)は女性性を目一杯表現できて見事だったが、イダマンテ(藤村実穂子=下の写真右)は男性性が表現できないので、完全燃焼という感じがしない。