劇団昴『グリークス』

charis2016-08-01

[演劇] ジョン・バートン編『グリークス』 (サイスタジオ大山) 2016年7月31日公演 


(右はポスター、劇団昴公演、台本翻訳は吉田美枝、演出は文学座の上村聡史1979〜)


RSCの演出家として名高いジョン・バートンが、ギリシア悲劇を10本の劇に再構成したもの。私は2000年にコクーンで蜷川演出版を見ているので、若い演出家による今回の昴版は、また違った味わいがあって面白かった。昼の12時から夜9時半まで全体を通しで一気に見たので、ギリシア悲劇をこのような形にまとめて上演することの良さと問題点について考えさせられた。


まず、バートン版は明確に「近代人の視点」からギリシア悲劇を解釈していて、それゆえ分かりやすいものになっている。たとえば、「神々の不完全さ」(託宣や命令や判断や行動の理不尽さ、非合理性)を大きく前景に押し出しており、「神々というのは人間の想像力が作り出した虚構だから、不完全なものだ」とはっきりした科白を誰かに言わせている。たぶんギリシア原作には、ここまで明確な科白は無いだろう。また、トロイ戦争の原因がヘレネだというのは口実で、本当は、良い交易路を押さえて商業的に繁栄しているトロイを叩く経済戦争なのだという視点。これは「エジプトのヘレネ」説(エウリピデス)を併せて考えると面白いが、やはり近代的な視点だろう。また、身内による報復の殺人は正当化できず、法の裁きによるべしというのは、もちろん原作でも提示されているが、そこをしっかり強調しているのは、神々の命令や託宣の不完全さの強調とともに、近代の視点だろう。


演出もよく考えられていて、アポロンやアテナがチャラい神さまになっているのがとてもいい。デウス・エクス・マキーナだから、高所に現れなければならないのに、「オレステス」終幕のアポロンは、死者の覆い布をかぶされて台車で登場し、いたずらっぽく「バア!」と起き上って、笑わせる。「タウリケのイピゲネイア」終幕のアテナは、なんと戦闘服姿で機関銃を打ちまくりながら登場。軽いノリの、若いネエチャンぽいアテナが何ともいい。この場面、蜷川版で、「厳かに」現れたアテナが「お説教」するのが、近代ヒューマニズムっぽい感じで、違和感を覚えた記憶があるので、上村版の方がずっと良い。デウス・エクス・マキーナは、もともとどこかコミカルなのだと思う。


オレステスがさえない醜男で、終始オタオタしているダメ男になっているのには驚いたが、アガメムノンやメネラオスも、もともとかなりコミカルなところのあるキャラであることにあらためて気づいた。軍服を着ているが、女にしか目がなく強くなさそうなアガメムノンや、ネクタイとスーツをパリッときこなしている商社マン風のメネラオスのずっこけぶりは、とてもうまい演出だと思う。全体として、ヘカベ、クリュタイムネストラエレクトラなど、女性に圧倒的な存在感があって、ギリシア悲劇というのは、「男が種で女は畑」と皆が口では言うけれど、実際は女性が真の主体であるように感じられる。ヘクトルアキレウスのような「英雄」でさえ、女たちの物語を盛り上げる脇役なのではないだろうか。


10個のギリシア悲劇をまとめて一つの物語にするのは、多様な要素を観客が消化しきれずに残ってしまうという問題がある。「アンドロマケ」も「オレステス」も面白いのだけれど、もとのエウリピデス原作からして話が複雑すぎるので、バートン版では、筋を知らない人は目を回すだろう。ただ、バートン版では、「アウリスのイピゲネイア」で始まり「タウリケのイピゲネイア」で終わるという全体の流れが、つまり、復讐に復讐を重ねて憎しみ合うタンタロス家をはじめとする人々が、エレクトラオレステス、ヘルミオネなど子や孫の代になって、和解へと至る筋道がとてもよく分かる。トロイアの王子妃であるアンドロマケが、アキレウスの子のネオプトレモスの子を産むというのは、大きく言えば、トロイアギリシア全体の和解になるというのは、今回の舞台で初めて気づかされた。アンドロマケがトロイアギリシアを結びつける存在であるというのは、各作品を単独で読んでいたら、なかなか気づかない視点だと思う。


あと、音楽は、ビートルズアイーダ行進曲や、その他いろいろ雑多に使われていたが、ジャンルを統一した方がよいのではないか。また、興行面での制約もあるのだろうが、ギリシア悲劇全部を一気に上演するのだから、舞台はもっと広くあるべきだと思う。横長の狭い舞台(観客席はわずか3列)で圧迫感が強く、ギリシア悲劇の本来の円形舞台とは非常に違う。こんなに小さい劇場「Pit昴」は、アングラ劇にはいいかもしれないが、ギリシア悲劇には不向きだと思う。