[オペラ] ケルビーニ《メデア》

[オペラ] ケルビーニ《メデア》 日生劇場 5月27日

(写真↓は舞台、ゲネプロから、中央はクレオン王の王女グラウケー)

日本初演!こんな凄いオペラがあったのかと驚いた。ケルビーニはモーツァルトより4年後の生れだから、かなり古い。エウリピデスの『メディア』をコルネイユがリメイクした戯曲をもとに創られたオペラ。原作ではクレオンの娘でイアソンと結婚する予定の王女グラウケーは登場しないが、本作では冒頭から歌うので、全体の印象がエウリピデス版とは大きく違う。彼女は、イアソンとの結婚を控えて、イアソンの妻メディアからの復讐を恐れ、その不安を切々と歌う。歌手は小川栞奈で若い人。ほっそりと可憐で美しく、凄みのある女性メディアとは対照的だ。グラウケーの歌とそれに随唱する合唱は、きわめて美しく、ほとんどモーツァルトのようだ。やがて登場するメディアの歌や音楽がベートーベンのようなので、結局、本作の音楽はモーツアルト+ベートーベンからできている印象を受ける。先日観たシュトラウスエレクトラ≫と同様に、メディアの音楽は<歌>ではあるが、このうえなく<叫び>に近い。(写真↓は、右からメディア、イアソン、グラウケー、その下はイアソンとグラウケーの結婚式、メディアが毒を盛った王冠によってグラウケーは式の最中に踊りながら焼き殺される)

それにしても、『メデア』というのは謎に満ちた作品だ。エウリピデス版では、グラウケーと男の子二人を殺したメディアが、終幕、龍車に乗って勝利感に満ちてアテナイへ去ってゆく。メディアに正義があるのだ。子殺しの母が罰せられないのは、割り切れない気持ちが残る。エレクトラが母親殺しの罪に問われて、復讐の女神に追われて殺されそうになるのとは大違いだ。しかし、プログラムノートによれば、エウリピデス版では、アテナイコリントスと戦争状態にあり、イアソンを受け容れたコリントスは悪であり、イアソンとの子を殺してコリントスから逃げ出すメディアに正義があるという、特殊な政治的コンテクストがあったのだ。コルネイユ版では、アテナイが出てこずに、この政治的コンテクストは後景に退いているが、それだけに、グラウケーと自分の二人の子を殺すメディアに共感するのは辛い。本作では、子ども二人とメディアの侍女ネリスが登場し、ネリス(中島郁子)が切々と歌うアリアは、このうえなく美しく悲しい(写真左↓)

プログラムノートにあるように、メディアは、魔女というよりは、知性も実行力もある人間の女に造形されている。子ども二人を殺すのも、衝動的ではなく、悩みに悩み抜いての末の行動なのだ。それにしても、今回メディアを歌った二期会の岡田昌子は絶唱というか、めったにない名唱の舞台となった。