長野順子『魔笛』

charis2007-03-24

[読書] 長野順子『オペラのイコロジー3・魔笛』(ありな書房、2007年1月刊)


(以下は、『図書新聞』第2814号、3月17日に私が書いた書評です。図書新聞社の了解を得て、以下に転載します。写真は表紙より。1815年、フリードリッヒ・シンケル演出の舞台スケッチ「夜の女王」。)


「夜の女王」の目線で捉える新しさ  ――長野順子魔笛』  

多層的物語が結果として「啓蒙の弁証法」を表現

                                   植村恒一郎


モーツァルト魔笛』を観るのが、また一段と楽しくなった。魅力的な案内書が一冊増えたからである。著者は桐朋音大出身の美学者で、『魔笛』の多層的構造を、キャラクターの解明、主要なアリアの音楽分析、物語の思想的背景、上演の舞台装置などによって解き明かしてみせる。特に素晴しいのは、80枚を越える貴重な図版だ。初演時のポスターや人物のさし絵、ゲーテやシンケルが演出した舞台装置スケッチなどが全編に散りばめられているので、読者は『魔笛』を視覚的に楽しむことができる。また、アリアや二重唱の分析は、主旋律の楽譜と歌詞が印刷されているので、読者はその箇所を歌ってみることができる。そして、『魔笛』の研究書としても、2005年にドイツで刊行されたアスマンやボルヒマイヤーの最新の文献が踏まえられており、いわば、玄人も素人もそれぞれに楽しむことのできる本なのだ。


本書の特徴の一つは、ジェンダー分析的な視点である。具体的には、夜の女王とパミーナが、物語の本質的な契機をなすという解釈である。著者はそれを、「<怒り、悲しむ>女性を視座にすえた独自のアプローチ」(p205)と呼んでいる。『魔笛』の物語では、最初は善玉であった夜の女王は、王ザラストロの登場とともに「悪女」ということになり、復讐心から自由になれないまま、最後にあっさりと地獄落ちさせられる。『魔笛』の全体は、祝福の物語である。動物たちが喜びの踊りを踊り、パパゲーノのような「野蛮人」(?)も、試練に打ち勝った若者も、万物がひとしく救済され言祝がれる大団円の輪から、しかし、なぜか夜の女王一派だけは冷酷に切り捨てられ排除される。ゲーテは『魔笛』の続編を構想したが、それは夜の女王の復帰の物語だったと言われる。はたして夜の女王は、そんなに「悪い女」なのだろうか? 著者の疑問はここから始まる。


物語を表層的にみれば、「光」や「啓蒙」を代弁するザラストロが「夜」「闇」「野蛮」を象徴する夜の女王に打ち勝って終わるように見えるが、実はそんな簡単な話ではないと、著者は言う。夜の女王は、古代ギリシアの大地と豊穣の女神デメテル、エジプトの女神イシス、聖母マリアなどのイメージが重ね合わされた「原初の母」であり、「生も光もそこから生まれてくる根源的領域」(p186)を象徴している。タミーノの魔法の笛もパパゲーノの魔法の鈴も、授けたのは夜の女王である。にもかかわらず、近代の「啓蒙」理念のある種の転倒によって、理性の定める「掟」や「法」(これを象徴するのがザラストロ)は、他者や異世界を「はじきだして排除することによって、あえて闇をつくりだす」。ザラストロの王国は、「原初の母」=夜の女王にあるべき場所を与えることができず、そのことによって、王国自体が微妙なグロテスクさを帯びることになる。有色人モノスタトス、鳥人間パパゲーノ、そして夜の女王は、ともに啓蒙世界の他者なのである。


もちろん、台本作者シカネーダーやモーツァルトが、このような「啓蒙の弁証法」を意図して『魔笛』を書いたわけではない。雑多な多層的物語が、結果として「啓蒙の弁証法」を表現してしまったところに、夜の女王やパパゲーノという異色のキャラクターの面白さがあり、『魔笛』の魅力がある。著者は、『魔笛』の求心力の中心にパミーナを置くが、これは優れた解釈だ。なぜならパミーナこそ、母である夜の女王と啓蒙世界を繋ごうとして自らが苦しむ真のヒロインであり、パパゲーノに助け出されることによって、受動的な深窓の王女から主体的な女性へと成長し、最後は王子タミーノを試練に導きもするからである。「夜と死を恐れないパミーナは、夜の女王の異界から生まれ、その領域を受け入れながら、それを光の世界につなげていく力を有していた。」(p187)


夜の女王とパミーナから『魔笛』を捉え返す著者の解釈は、きわめて新鮮で示唆に富む。19世紀におけるシンケルの『魔笛』再演の章もとても有益。だが最後に一つだけ、評者が見解を異にする点も挙げてみたい。「モーツァルトは、《魔笛》の中でもっとも魅惑的な音楽を夜の女王に与えた」(p183)とあるが、これはどうだろうか。夜の女王のアリアはたしかにユニークだが、もっともモーツァルト的な音楽というわけではない。パパゲーノやパミーナのアリアや二重唱にこそ、ケルビーノ、スザンナ、ツェルリーナ等のアリアがそうであるように、「モーツァルトのもっとも魅惑的な音楽」があるのではないだろうか。
                   (うえむら・つねいちろう 群馬県立女子大学 哲学)