ケントリッジ演出、『魔笛』

charis2018-10-14

[オペラ] モーツァルト魔笛』     新国立劇場  10月14日


(写真右は舞台、タミーノとパミーナの試練の場、黒板にチョークで絵を描くように、黒い地と白い光線で舞台全体が構成される。写真下も舞台、舞台全体が蛇腹カメラの内側にあるという想定なので、奥行き感が凄い。カメラのメタファーを暗示するため、冒頭の三侍女の場面に蛇腹カメラが登場する)


その空間造形に驚かされる『魔笛』だった。4月に観たバリー・コスキー演出『魔笛』は、全編CGを使ったアニメが舞台装置だったが、本作の演出のケントリッジはドローイングを中心とする現代アートの人なので、黒板に白いチョークで絵を描くようにして舞台を形成する。オペラは19世紀の昔から、新しいテクノロジーを導入しながら舞台を作ってきたから、それがまた新しい段階に入ったわけだ。ケントリッジの手法は、奥行きを異にした幾つもの平面を投影(プロジェクション)によって作るので、観客席からは、まるでトンネルの中にいるように感じられる。それぞれの平面の横向きの動きの速さを差異化することによって、まるで舞台全体が観客席に向かって突進してくるような空間感覚を作り出せる。そして、空間に描かれるさまざまな絵は、登場人物の心象風景になっている。写真下は↓、夜の女王と、最後のパパパのシーン、三童子が描く丸い円は卵で、そこからパパゲーノとパパゲーナの子供たちが生まれてくる。


魔笛は、荒唐無稽な物語の中に、たくさんの主題が含まれているが、基本は、試練に打ち勝って愛が成就するという、愛の讃歌である。しかし夜の女王とその一派(三侍女とモノスタトスを含む)には、深いミソジニ―(男性が心の底に持っている女性憎悪)が投影されており、今回の舞台は、プロジェクションの方法によってザラストロの「光」を強調したために、夜の女王の「暗黒」性が際立ち、ミソジニーは通常の舞台以上に前景化されたように思う。パミーナの試練がもっとも目立つのは、『魔笛』の正しい解釈だと思うが、プロジェクションの手法を生かすことを優先したために、表現が弱くなってしまった箇所もある。たとえば、タミーノの笛で動物たちが踊り出すシーンは、一匹のサイが踊る黒白の映像になっているが、ここは通常の演出のように、ぬいぐるみの動物たちがたくさん登場して踊り出す方がずっとよい。追ってきたモノスタトスに対してパパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らすシーンも、鈴の音がまるで武器のようになってモノスタトスを追い返すのだが、これもおかしい。ここは、モノスタトスと部下たちが鈴の音に魅せられて、一斉に踊り出すのでなければならない。魔法の笛も魔法の鈴も、音楽は暴力ではなく、和解と愛をもたらすというのが『魔笛』の最高のメッセージなのだから、『魔笛』全幕で三回鳴って、奇蹟を引き起こすグロッケンシュピールのシーンは、いわば『魔笛』の核心なのだ。(1)モノスタトスたちが踊り出す、(2)パパゲーノの眼前で老婆パパゲーナが女の子に変身する、(3)そして最後のパパパ、この三回のグロッケンシュピール・シーンは、すべて奇蹟であり、愛が、そして音楽が恩寵であることを示している。死のうとするパミーナが三童子によって救われ、生きることを決意する四重唱は何と美しいのだろう。自殺しようとするパパゲーノも、三童子によってグロッケンシュピールの存在を思い出し、そこでパパパになるのだから、やはり愛は恩寵であることを示している。とすれば、三ヵ所のグロッケンシュピール・シーンが弱いのが、まさにこの演出の弱点である。あと、今回の演出で疑問だったのは、ビクトリア朝末期の衣装にしたために(写真下の左↓)、ザラストロが、イギリスの王様+フリーメイソンの教祖みたいな奇妙な人物造形になったことである。ザラストロは、古代エジプトの神官、そして若者の結婚=通過儀礼を仕切る共同体の長でなければならない。あと、オケの東フィルはソノリティー(=響きの豊かさ)に乏しかった。もう少し音の全体が豊饒に響いてほしかった。(写真↓の左端はザラストロ)

4分間の動画があります。夜の女王、パミーナ+三童子の重唱や、パパパのところも。パパパのところ、黒板に絵を描くのではなく、二人が体を動かして、全身で喜びを表現してほしかった!
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/die-zauberflote/movie.html