南アフリカの『魔笛』

charis2008-12-23

[オペラ] 南アフリカモーツァルト魔笛』 東京国際フォーラムCホール


(写真右は踊り、下は、パミーナを囲む三童子(=精霊)、とっても可愛い女の子たちでした。そしてタミーノ)

南アフリカで活動するイギリス人、ドーンフォード=メイが、黒人のさまざまな音楽を生かしてモーツァルト魔笛』をアレンジした。昨年ロンドンでヒットし、今回の東京公演。これは『魔笛』上演史に残る画期的な試みだ。『魔笛』がほぼ原作どおり上演されるのだが、音楽がオケではなくマリンバ合奏に置き換えられている。私は序曲が始まっただけで涙がこぼれてしまった。もの静かで不思議な響き! そしてこれはまぎれもなくモーツァルトマリンバの奏でる『魔笛』序曲は、原曲のもつリズム感が、より軽快でより美しく感じられる。私は前から3列目の席にいたが、何よりもまず、舞台上の両翼に並んだ奏者たちが、飛んだり跳ねたりしながら嬉しそうにマリンバジャンベ(太鼓)を叩く、その表情に引き付けられた。アフリカの大地から静かに沸きあがってくる『魔笛』序曲。何という素晴らしい調和! モーツァルトにはこういう奇蹟が起こりうるのだ。


歌詞は英語だが、音楽は原曲をほぼ忠実にマリンバ合奏に編曲し、そこにゴスペル、ソウル、ジャズ、アフリカの伝統音楽などが、所々に少し加えられる。タミーノの魔笛がフルートではなくトランペットで吹奏されたのがよかった。トランペットの哀調を帯びた魔笛の旋律は、しみじみと胸の奥まで染み通る。パパゲーノの歌は、横に女の子たちがずらりと並んで「パッ、パッ、パッ」と合いの手を入れてリズムを取る(きっと鳥の声なんだね)。こういうパパゲーノは初めてだが、とても自然で、いかにもパパゲーノらしく感じてしまう。グロッケンシュピールは、ビンや板を叩く調子っぱずれの素朴で土着的な音。追っ手のモノスタトス一派が「ラララッラ」と一緒に歌い踊り出すシーンが、土俗的でほのぼのとした感じになる。夜の女王を歌ったポーリーン・マレファネは若い黒人歌手なので、西洋の一流コロラトゥーラ・ソプラノのようにはいかない。苦しげにかすれ声で歌われた夜の女王のアリアだったが、庶民的で太っちょのおかみさんふう夜の女王が歌う「しょぼい」アリアは、とてもいとおしいものに感じられた。マリンバ合奏には、完璧なコロラトゥーラはかえって似合わない。洗練されないものが輝くというのが、『魔笛』の『魔笛』たるゆえんだ。


もっとも良かったのは、原作ではとても不自然な存在であるザラストロが、とても生き生きして自然なものに見えることだ。原作のザラストロは、奇妙な近代啓蒙理想を鼓吹するグロテスクな存在で、新興宗教の教祖のように見える。しかし本作のザラストロは、南アフリカのコーサ族の酋長をモデルに作られた。原始的な共同体の酋長であるザラストロは、白い美しい衣装を着た青年で、自分も嬉しそうに跳んだり跳ねたり、踊りまくる。こういうザラストロこそ、とても健康的で、自然で、本来のザラストロなのではないだろうか。タミーノとパミーナの試練も、コーサ族の若者のイニシエーション儀式になぞらえられる。原作とは違い、水の試練でタミーノが気を失ってしまい、パミーナが手荒くタミーノに「活を入れて」意識を回復するというのが、とてもよい。原作では、タミーノの試練は、権威主義的な宗教教団の儀式のようで後味が悪い。しかし本作のコーサ族の若者イニシエーションは、もっと明るい。立派な成人となるタミーノの試練を、部族のたくさんの人間が共感を込めて見守っている。「ひゃ、ひゃー」みたいな冷やかしのちゃちゃも入って、にぎやかなのだ。権威主義的ではなく、お祭りのように猥雑で楽しいイニシエーション。これこそ、より『魔笛』らしい試練ではないか!


”悪者”のモノスタトスも、全員が黒人の物語では、「黒い」ことに肩身の狭い思いをすることもない。原作『魔笛』は、雑多で不整合な物語にモーツァルトの音楽が奇蹟の調和を作り出すが、アフリカの黒人たちの新しい世界にさらに大きな調和が創り出されるのだ。モーツァルトを呼び出して、「さぁ御覧なさい、ここにあなたの『魔笛』がありますよ」と言ってみたいではないか。


以下で動画が見れます。↓
http://www.mateki2008.jp/