オペラ「小さな魔笛」

charis2008-08-22

[オペラ] モーツァルト:小さな「魔笛」(両国 シアター・カイ)

(右はポスター。下の写真は、12月に来日する南アフリカの劇団による「魔笛」。こちらも楽しみだ。↓は、案内とロンドン公演の動画)
http://www.mateki2008.jp/

モーツァルトの「魔笛」は、最近、さまざまなバリエーションで上演される。本作は、ドイツで活躍する指揮者の天沼裕子と、77年生れの若い演出家エッダ・クレップの二人の女性によるリメイク版。ドイツでは子供向けオペラが盛んで、この「魔笛」は、小さな子供も楽しめるように約70分にコンパクト化された。ドイツ公演に続いての日本上演。歌はドイツ語だが、しゃべる台詞は日本語。音楽は、ピアノが天沼裕子、それにフルートとファゴットが加わる三重奏。オケでなくとも、「魔笛」の音楽のエッセンスはこれで十分に表現されている。パパゲーノのグロッケンシュピールが、本物の代りにピアノで代行されるのはやや不満と言えるが、たとえばタミーノの笛で動物たちが踊りだすシーンなどは、木管三重奏がたとえようもなく美しく、音楽が心に染み通る。


登場人物は、タミーノ、パミーナ、パパゲーノ、パパゲーナ、夜の女王、ザラストロの6人だけで、このうちパパゲーナと夜の女王、パパゲーノとザラストロは、同一人物が着替えながら両方演じる。もともとキャラクターが正反対の二人を同一人物が演じるのは、とても面白い着想だ。というのも、服装やメイクを完璧に使い分け、ザラストロはサングラスを掛けた偽せ盲人になっているので、ちょっと見ただけでは分からないからだ。最後のカーテンコールで、パパゲーノとパパゲーナは、しきりに舞台の横を向いて、夜の女王とザラストロを待つふりをする。だが出てこない。首をかしげながら退出し、今度は二度目のカーテンコールで、二人は夜の女王とザラストロのかぶっていたキャップを抱えて現れるので、ここで分かるという仕掛けなのだ。


音楽的には、アリアや重唱など、重要な部分を中心に構成されている。夜の女王の二つのアリアも歌われ、パミーナとパパゲーノの二重唱Mann und Weibも普通と同じ。ただし、物語を切り縮めたので、老婆から若いパパゲーナが現れてパパゲーノが狂喜するシーンと、パパゲーナがいなくって再び現れる「パ、パ、パ」のあのシーンまでの間がとても短い。そのために、パパゲーナを失って絶望したパパゲーノが首吊りを試みるリアリティも希薄になり、一応、首吊り縄は出てくるが、「一回、二回、三回」と試みるシーンもなしに、いきなり現れたパパゲーナが「何さ、こんなもの」とばかりに縄をひょいと取り去って、すぐ「パ、パ、パ」の歌になる。ここは、ちょっと疑問だ。やはり「パ、パ、パ」の歌には、その前の緊迫した時間の「持続」が必要で、映画の早回しのように先に進めるわけにはいかない。


登場人物が6人に絞られることに対応して、物語のコンパクト化にはいろいろと知恵が絞られている。タミーノの沈黙の試練は、口を開いてもらえなかったパミーナが怒って、今度は自分が口を開かずにタミーノの求愛を無視するという、若者同士のいかにもありそうな鞘当てになっている。ザラストロと夜の女王は、パミーナの父と母であり、父と母は何やらよく分からない諍いをしているので、娘は「もう、二人とも、私のことなんかどうでもいいのね」とスネて反発する。これは子供でもよく分かる家庭劇の筋書きだ。だが、ザラストロの神話的な人物造形と、「理性と知恵が支配する神殿」という部分は、けっこう原作に忠実なだけに、ここだけ浮き上がっている。また、パミーナの人物造形はやや欲張りすぎではないだろうか。もともと誘拐された王女の救出物語なので、パミーナは「かわいいお姫さま」というキャラをまったく失うわけにはいかない。しかしコンヴィチュニー演出もそうであったように、最近ではパミーナを「自立した強い女性」として扱う上演が流行っている。本作でも、ロングスカートに長袖の「かわいいお姫さま」パミーナは、途中からスカートをカーテンのように横に開き、網ストッキングに黒いホットパンツ姿の「不良っぽいねえちゃん」に変身する。ザラストロのサングラスを奪って自分が掛けたりするのだが、タミーノとの再会では、さっとロングスカートに戻して「かわいいお姫さま」を演じる。面白いといえば面白いのだが・・。


全体として言えば、物語のコンパクト化にやや難があるとしても、木管三重奏にすることによって音楽の美しさは少しもそこなわれない。とても小さな劇場なので、演劇的な仕草やしゃべりの台詞に対しては、舞台のかぶりつきのシート席にいる大勢の子供たちがいろいろと反応し、声をあげるのだが、これは少しも苦にならない。私自身も、子供たちに囲まれて、3000円のシート席に座って聞いた(そこしかチケットが残っていなかったから)。かつての小劇場の演劇のような「魔笛」。かしこまって静聴しなくても、客席の子供たちの歓声やつぶやきが混じっても、「魔笛」はその魅力を失わない。原作そのものが、猥雑な諸要素と奇跡のような音楽との不思議な混淆だからであろうか。歌に字幕がつかないので、子供には歌の意味が分からないのだが、それでも子供はじっと歌を聞いている。モーツァルトの音楽は、歌詞の意味すら不要なものにしてしまう。