『テヘランでロリータを読む』(3)

charis2007-03-19

[読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊)


本書は我々に「文学と現実の関係」という重い問いを投げかけている。ナフィーシーは、読書会で選んだ作品の作者はいずれも「文学の決定的な力を信じている」(p33)と述べている。そして彼女自身もまた、この点では変わらない。彼女の文学観を示す箇所を見てみよう。「フィクションは現実の複製ではない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」(p13)。「『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』は[不愉快な内容なのに]、なぜ我々にこのうえない喜びを与えてくれるのか。・・・どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。・・・あらゆる芸術作品は祝福である。・・・形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆する。だからこそ私たちは『ボヴァリー夫人』を愛してエンマのために涙を流し、無作法で空想的で反抗的な孤児のヒロインのために胸を痛めつつ『ロリータ』をむさぼり読むのだ」(p73)。文学の力は、それが「複雑なものや規則からはずれたものを読み解き、理解する能力」を養い、「自分たちの白黒の世界に合わせて、世界のもつ多様な色彩を消し去ろうとする傾向」に抵抗する点にある(p378)。


以上がナフィーシーの文学観であるが、これをもとに考えてみたいのは、本書に対して出されるであろう次のような疑問である。すなわち、本書はたしかに「美しい物語」であるが、しかしそれは、イランのような苛酷な抑圧があるからこそ、学生たちは文学作品を鋭く読み解き、大きな啓示を得ることができたのではないか。アメリカや日本のような「寛容な社会」には、イランのような直接の抑圧はないから、文学に「抑圧への抵抗の拠点」を求める必要はないし、文学もそのような機能は果たせないだろう。著者の文学観は、イランには有効かもしれないが、現代の西欧の先進国には妥当しない。たとえば、山形浩生氏は、ほぼこのような批判を本書に投げかけている。↓
http://cruel.org/cut/cut200610.html


山形浩生氏の批判は、イランの抑圧が作品の鋭い読みを可能にしたという点は当たっているが、だからイランのような強い抑圧がないところでは文学の批判的機能は役立たない、という主張は当たっていない。その理由は、文学の力の源泉を、ナフィーシーは「形式の美と完璧」に見出しており、これは苛酷な政治的抑圧への対抗という文脈よりも、さらに広く妥当する文学の機能だからである。『ボヴァリー夫人』が優れた芸術であるのは、フロベールの文体に秘密があり、彼が散文を芸術に昇華したからである。ナフィーシーは、このような文学的常識を述べているにすぎない。彼女は、処刑された女子学生ラージーエについて、「彼女は美に対するすばらしい理解力をそなえていた」(p306)と述べている。あまり目立たないが、ここは重要なポイントなのである。そのことは、第4部のオースティン論で、もっとよく見て取ることができる。


高慢と偏見』は、筋だけみれば、20歳の女の子が素敵な男性をゲットして幸せーっ、という話だが、本書の論点はそこにはない。ナフィーシーは、「他者を〈見る〉能力の欠如」「他者への盲目性」という我々自身の現実を「美的な仕方で示す」ことこそ、文学に固有の機能であると考える。「オースティンにおける悪もやはり、他者を〈見る〉能力の欠如、したがって他者の心を理解する能力の欠如にある。恐ろしいのは、こうした他者への盲目性が、(ハンバート[=『ロリータ』の主人公の中年男]のような)最悪の人間だけではなく、(エリザベス・ベネット[=『高慢と偏見』のヒロイン]のような)最良の人間にさえ見られることである」(p432)。おそらくこの文章が、ロリータで始まりオースティンで終わる本書全体の趣旨をもっとも的確に語っている。「『高慢と偏見』のもっともすばらしい点の一つは、描き出された声の多様性にある」(p366)。ダーシーがエリザベスに対して「あなた」というそっけない代名詞をきわめて微妙に使うことによって、愛の感情が表現されているのであり(p419)、「オースティンの小説には触感が欠けているが、その代わり緊張が、音と沈黙のエロティックな味わいがある」(p420)。散文を芸術にするこのような美的な技法によってはじめて、エリザベスのような聡明な女性にも「他者への盲目」があることを我々に「ある仕方で示す」ことができる。この「ある仕方で示す」技法こそ文学に固有の機能であり、だからこそ我々は、倫理や宗教の「お説教」とは違った仕方で自分の「盲目性」に向き合うことができるのだ。


オースティンは、「他者を〈見る〉能力の欠如」「他者への盲目性」が、ヒロインのエリザベスのような最良の人間にさえありうることを示し、平凡な日常生活の中にこそ生きることの本当の難しさがあることを教える。チェーホフもまた、まったく同じことを教える。「他者を〈見る〉能力の欠如」「他者への盲目性」は、イランを支配するイスラム原理主義者だけにあるわけではなく、「寛容な先進国」における我々自身の中にもあまねく存在する「根本悪」といえるだろう。だからこそ、イスラム原理主義を批判する芸術=文学の視点は、同時に、我々自身を批判する普遍的視点にもなりうるのである。「複雑なものや規則からはずれたものを読み解き、理解する能力」を養い、「自分たちの白黒の世界に合わせて、世界のもつ多様な色彩を消し去ろうとする傾向」に抵抗することこそ(p378)、実は「寛容な社会」に生きる我々のもっとも切実な課題ではないのだろうか?