[オペラ] S.マクバーニー演出、モーツアルト《魔笛》 Metライブ Movixさいたま 7月14日
(写真↓上は、中央がモノスタトス、右端がパミーナ、下は、パミーナとパパゲーノ)
私がこれまで観た数十回の《魔笛》の中でも、トップ級の上演だ。《フィガロの結婚》などモーツァルトのオペラは、「美・エロス・愛」の三位一体が輝くばかりに成就しているのが魅力だが、マクバーニー版の《魔笛》は、エロス的要素がやや後景化しつつも、「美・崇高・愛」の三位一体がエンテレケイアとなっている。《魔笛》は音楽のない科白部分も多い作品で、通常のオペラ上演ではその部分はカットされることが多いが、本作は演劇的部分もしっかり前景化している。(写真↓は、母=夜の女王に抵抗する娘パミーナ)
一番驚いたのは、パミーナを救う三人の天使(童子)が醜い老婆になっていることだ。パミーナもけっこう地味で、ソプラノ歌手としては美女ともいえない(写真↓)。パパゲーナに至っては、背の低い太った女子で、どうみても普通の女の子。夜の女王も、車椅子に乗った老婆だし、女王の三人の侍女も美女とはいえない。タミーノも黒人のやや太った歌手で、王子様にしては、ぶおとこ。それに対して、唯一、イケメンの美青年はモノスタトス(!)。要するに、モテ資質のほとんどない非モテ男子/非モテ女子の間に愛が成就するという「恩寵としての愛」が、本作の主題なのだ。男も女も、愛の主体になれるためには、エロス的資質を持っているかどうかではなく、ある種の「試練」を克服できるかどうかが鍵になる。
本作では、パミーナがパパゲーノに劣らず主人公のように見える。彼女こそが試練に一番苦しみ(タミーノの沈黙だけでなく、夜の女王との母娘関係)、そして試練を乗り越えて愛の主体になる。今まで私は、パパゲーノだけは、試練を越えられなかったのに、最後にパパゲーナという恩寵が与えられる物語だと解したが、今回見て思ったのは、最初老婆すがたのパパゲーナが与えられたとき、「ま、婆さんでもいいか、彼女がいないよりはましだ」と彼女を受けいれるパパゲーノの科白は重要で、これは彼なりに試練を克服したわけで、これがあるから彼は最終的に祝福され救済されるのだと思った。
《魔笛》は全体で3回、パパゲーノがグロッケンシュピールを鳴らして奇蹟が起きる。《魔笛》のもっとも重要な場面。今まで私は、最初(追っ手のモノスタトス一味が嬉しくて踊り出す)と最後(パパパの場面)は、その必然性がよく分るが、第2回目(老婆すがたのパパゲーナが現れる)のグロッケンシュピールの必然性はよく分からなかった。でも、今回でよく分かった。あれはパパゲーノに乗り越えさえるための試練なのだ。そう、試練もまた恩寵なのだ。終幕も、ゲーテがリメイク版を志したのと同様の終り方をしている。つまりザラストロが夜の女王を優しく車椅子から抱き起し、二人で舞台中央に立ち、夜の女王もまた祝福され救済される。(モノスタトスも救済されたのかどうかは、よく分からなかった)。
《魔笛》はモーツアルトの死の少し前の作品で、明らかに彼は自分の死を予感していただろう。愛は、自力で成就されるものではなく、恩寵であることを前景化したという点で、やはり《魔笛》は彼の最高傑作だと思う。人間の肉体はそれほど美しくなくても、互いに愛する時には美しい、愛はそのとき「ケア」に昇華されている。これがマクバーニー版《魔笛》のメッセージなのだろう。醜い老婆としての天使はそれを象徴している。
2分間の動画が、パミーナが激しく苦しむ場面