新国『お気に召すまま』

charis2008-01-25

[演劇]  シェイクスピア『お気に召すまま』 新国立劇場・小ホール




(写真右は、ポスター。写真下は、ヒロインのロザリンドを演じる1950年のキャサリン・ヘップバーン、その右は、1961年のヴァネッサ・レッドグレイヴ(20世紀屈指の名演と言われる)。その下は2006年カーネギーメロン大学公演。もう一つ下は、ロザリンドを演じるタマラ・ヒッキー(2007)、最後は2007年オレゴンシェイクスピア祭公演。)



シェイクスピアでもっとも好きな作品を一つ選べと言われたら、私は『十二夜』を挙げるが、二つ選んでよいならば、『お気に召すまま』を加えたい。本公演は、文化庁の留学制度で在外研修をした若手俳優などによる自主公演だが、内容はとても充実したものだった。翻訳・演出は、伊藤大。


20世紀の映画『ローマの休日』を知る我々は、恋愛が「ロマンティック」なものとして描かれることを少しも不思議に思わない。だが、恋愛がロマンティックな「美しくて、よいもの」「万人に推奨されるべきもの」になったのは、近代以降なのである。昔から、恋愛は極端な喜劇あるいは悲劇として描かれてきた。恋をする者は、男も女も舞い上がってしまい、盲目になり、相手を客観視することができない。昼も夜も相手のことが心から離れず、連絡がなければ怒り、些細なことで打ちのめされ、いく分かはストーカー的にもなる。はたから見れば、実に滑稽で、少し頭がおかしくなったのではないかと思われる状態、要するに「恋は狂気」として描かれるのが、たとえばシェイクスピア以前のイタリア喜劇であった。また、日本の近松の悲劇を見れば分かるように、恋は「心中」に直結するものでもあった。つまり、こうした喜劇や悲劇は、「並みの人間は、恋などするものではない」と我々に教えているかのようである。


現代の我々が、恋愛をロマンティックなもの、結婚に結びつく「ハッピーなもの」と考えているとすれば、そこに至るまでに何か恋愛観の大きな転換があったはずである。そして、「滑稽な狂気としての恋」から「ロマンティックな美しい恋」へのこの大転換を成し遂げた人こそ、まさに「われらの」シェイクスピアなのである。『十二夜』『お気に召すまま』は、この転換作業の頂点に位置する最高傑作であり、シェイクスピアは、「ロマンティック・ラブ・コメディ」という新しい「神話」を創造することによって我々を「救済」したのである。恋愛が「近代ブルジョアジーの神話」(アドルノ)であるとすれば、『十二夜』『お気に召すまま』からモーツァルトフィガロの結婚』に至るような、恋愛と結婚を言祝ぐ祝祭の神話が必要だったのである。


十二夜』は、恋の滑稽な狂気を執事マルヴォーリオが演じ、ヒロインの一人である伯爵令嬢オリヴィアも滑稽な「舞い上がり」はするものの、少年に扮するヒロインのヴァイオラが最初からロマンティックに造型されているので、滑稽さと美しさの役割分担と調和が見事になされた、ある意味では分かりやすい作品である。それに対して、『お気に召すまま』は、ヒロインのロザリンド自身が滑稽な恋を演じることや、ジェイクイズという極端に厭世的なキャラクターが重要な位置を占めるなど、多層的で複雑で難解な作品である。めったに上演が成功することはなく、イギリスでも、ヴァネッサ・レッドグレイヴのロザリンドが現れるまでは、批評家を真に満足させる上演はなかったと言われるほどである。追放された公爵の娘ロザリンドは、男装して「アーデンの森」に隠れ住み、恋人のオーランドの前に「狂気の恋の熱を覚まさせるカウンセラー」として現れる。しかしながら、ロザリンドを恋焦がれ崇拝するオーランドの「恋の狂気を、僕が治療してやろう」と宣言するロザリンドその人が、実は内心、オーランドを狂おしく恋しているのである。ロザリンドによる「恋の狂気の治療」の試みは結局、破綻し、オーランドに対して優位を保っていたはずの彼女が「恋の奴隷」に転落するのだが、この転落を自覚し受容することを通じて、彼女は浄化される。狂気の恋が美しいものに変容する奇跡が起きるのだ。


「男である僕を君の恋人のロザリンドだと仮定して、僕を口説いてみろ」と男装したロザリンドはオーランドを操り、彼の口説きにケチをつけるうちに、彼女自身が深い罠にはまってゆく。第4幕第1場のこのシーンは、今回の上演でとても上手に演じられたように思う。昨年出た松岡和子の新訳から、このシーンを少し引用してみよう。
(オーランド)「何か言う前にキスしたい。」
(ロザリンド)「だめ、まず何か言わなきゃ、何も言うことがなくなったらそれをチャンスにしてキスしてもよろしい。・・・」
(オー)「キスを拒まれたら?」
(ロザ)「そうやってあなたに嘆願させる気なの、そこにまた新しい話の種が生まれる。」
(オー)「大好きな人の前で言葉に詰まる男なんているのかな?」
(ロザ)「あたしがあなたの恋人なら、詰まってほしい。さもないと自分がしとやかなだけで頭が悪いと思えてくる。」
(オー)「え、口説き文句に詰まったほうがいいの?」
(ロザ)「文句はいや、でも口説かれるだけじゃ詰まらない。あたし、あなたのロザリンドじゃなかったかしら?」
(オー)「そう呼べるだけでちょっとは嬉しいな、あの人のことを話していられるから。」
(ロザ)「じゃあ、その人の身になって言うわ、あたし、あなたなんか要らないの。」


今回の伊藤大演出の特徴は、悪役であるフレデリック公爵、オリバー、そして羊飼いの老人コリン、そして何よりも憂鬱と厭世の人物ジェイクイズを女優に演じさせたことにある。髭をつけて完璧に男装させるのだが、この脇役たちのトランスジェンダーは、ロザリンドの男装とみごとに調和して、何ともいえない穏やかで面白い雰囲気をかもし出していた。『お気に召すまま』というこの難しい作品を日本語上演し、コメディーとしてここまで成功させたのは、緻密な計算に裏打ちされていればこそであろう。