野田秀樹『The Diver』

charis2008-10-03

[演劇] 野田秀樹『The Diver』  三軒茶屋・シアタートラム

(写真右は、六条御息所を演じるキャサリン・ハンター、源氏「葵」の車争いの場より。写真下は、能『海人』の一場から題材を取ったもの。手前が海女に扮するキャサリン・ハンター、後方が野田秀樹。)

活動の拠点をロンドンに移した野田秀樹が、ソーホーシアターと共同制作した新作。台詞は英語、字幕が付く。シンプルでスタイリッシュな現代劇に日本の古典を巧みに織り込んで、テンションの高い舞台が実現した。物語は、子供を二人殺して検挙された女性容疑者(キャサリン・ハンター)が、心神喪失を疑われて、精神科医(野田秀樹)と対話するという設定。彼女は自分が誰だか分からず、「自分は天皇のメカケだ」などとおかしなことを言う。精神科医と彼女とのやり取りが進むにしたがって、現実と虚構が溶け合い、彼女は、『源氏物語』や能『葵上』における夕顔、六条御息所、能『海人』の海女などに人格が次々と変わってゆく。そして、このような人格の「転移」を重ねたあげく、最後は自分が犯人であるという自覚にたどりつき、彼女は絞首刑になるが、彼女と精神科医の二人で夢幻的な海中遊泳が行われて終幕。The Diverというタイトルは、海に潜る海人(あま)を意味しているのだろう。


犯人と精神分析医の対話という基本設定が巧い。人間の自己認識は、物体のように最初から自明なものとしてあるのではなく、テキストを解読するように、そのつど自分や他者に物語りつつ生成してゆく言語的なものだ。だから精神分析的対話においては、犯人の山中ユミが、『源氏』や『海人』のさまざまな女性に次々に成り代わっていくのも不自然ではない。以前の野田劇のような、大掛かりな「時空ワープ」は不要なのだ。能は、現実や回想や夢が融合している上に、身体の様式化による異様なテンションの高さをもっている。そのような要素が、本作では現代劇にうまく取り込まれている。とはいえ、物語それ自体はとても暗いので、コミカルな要素を織り交ぜてバランスを取っている。たとえば、源氏の携帯電話はしょっちゅう鳴るのだが、不倫中にあわてて妻に弁解したり、「パパはお仕事中だよ」と子供に返答したり、また、葵上(なぜか野田が演じる)は六条御息所にケータイをかけまくって彼女を悩ませる。そして、夕顔の場面では、現代のテレビクイズ番組が楽しく演じられる。あたかも、重々しい能の合間に狂言が挿入されるかのように。小道具の使い方も巧い。扇はケータイになるし、「葵」の車の場所取りシーンも、丸い笠で車を表現する(写真右上)。音楽は、日本の囃子方と笛の名人が生演奏する。

今回は最前列で観たせいもあるが、キャサリン・ハンターの身体パフォーマンスの素晴らしさに圧倒された。上の写真は最後の海中遊泳のシーンだが、ハンターの身体はつねに直線性を鋭く感じさせる。左側の野田の身体動作がつねに「丸っこくて」おぼつかないのと対照的だ。彼女の身体の「切れ」は戦慄的ですらある。能や狂言の役者の身体は、空間を切り取ってゆくような凄みを感じさせる。たとえば、野村萬斎は現代劇をやっても、彼がすっくと舞台に立って歩くだけでも、ほれぼれするほど美しい。そのような身体性の切れを、今回はキャサリン・ハンターに感じた。野田はプログラムノートで、『源氏物語』は、「甘やかす女」と「甘やかされる男」を描いていると面白いことを言っている。本作でも、犯人のユミは、媚びるような笑いと恐怖に満ちたこわばった表情とを交互に転換させるが、それもハンターだからこその名演技といえるだろう。