宮城聰『ハムレット』

charis2008-11-15

[演劇] 宮城聰演出『ハムレット』 静岡芸術劇場

(写真右はポスター、写真下は2008年夏のRSC公演におけるハムレットとガートルード)

劇団クナウカを主宰する演出家の宮城聰の新演出。通常なら上演に5時間を要する『ハムレット』を、1時間40分に再構成した。人物の独特の動き方、異国的衣装、抑揚を殺した無機的な台詞回し、音楽など、いかにもクナウカ風の舞台を久しぶりに楽しめた。だが、それが『ハムレット』上演として成功しているかどうかは、また別だ。『ハムレット』は、きわめて多様な側面をもつ演劇である。まず、行為に踏み切れないメランコリックな王子様というドイツロマン派以来の正統的解釈があり、また、明治初頭の歌舞伎作者は、父を殺された息子の「あだ討ちもの」というネタをそこに読み取った。20世紀後半になると、著名なシェイクスピア学者ヤン・コットはハムレットに政治的ニヒリズムの極致を見出し、あるいは、隆昌をきわめる精神分析的解釈は、母ガートルートを憎悪するハムレットの異様な性的潔癖性やオフィーリアに対するミソジニー、そして、先王ハムレットの男性性に対する弟王クローディアスの男性性欠如などに焦点を当ててきた。日本の劇作家如月小春は、若者たちの美しい友情が無残に裏切られてゆく痛恨極まりない青春劇として『ハムレット』を讃えた。このように多面的・多層的だからこそ、完全上演には5時間もかかるわけだ。ヤン・コットは『ハムレット』の魅力を、どの時代の人々も「この戯曲の中に自己自身の像を見出す」ことができる点に求めている。


宮城聰はプログラムノートで、ハムレットの特徴を「自分が本当は何をしたいのか分からない。自分の欲望を把握できない」人物として捉えている。たしかにこれは、「私探し」が流行る現代にふさわしい優れた理解というべきだろう。そして、「自分が本当は何をしたいのか分からない人間」は、チェホフ、ベケット以来の現代演劇が表現しようとした主題でもある。だが、そうであればこそ、そのようなハムレット像は、文楽に着想を得て特有の魅力的な「様式化」を創造してきたクナウカ演劇になじむものであるかどうかが問題になる。クナウカ演劇の頂点をなすと私には思われる『エレクトラ』は、舞踊の要素を取り入れたすばらしい身体表現によって、ギリシア悲劇に伏在する深い情念を一気に奔出させる類まれな舞台であった。これは特有の様式化によって初めて可能になったものである。ところが、「自分が本当は何をしたいのか分からない人間」としてのハムレットを描き出すのには、クナウカ演劇の様式化はあまり向いていないような気がする。


ハムレット』は、登場人物たちの性格や心理が深く表現されているので、細部がとても重要である。たとえば、兄レアティーズと妹オフィーリアとのたわいもない会話、宰相ポローニアスが息子レアティーズや娘オフィーリア、そしてレアティーズ監視のために派遣するスパイに対して与える小うるさい詳細な指示、昔の友人ローゼンクランツやギルデンスターンに対するハムレットの苦痛に満ちた短剣のような科白、父王の亡霊を最初は信じなかった誠実な友ホレーシオの逡巡など、どれもハムレットを描くためには欠かせない要素である。しかし1時間40分しかない宮城ハムレットでは、これらはすべてカットされている。その代わりに詳細に再現されるのは、劇中劇や旅役者たちとのやりとりである。『ハムレット』の劇中劇には、パントマイムを含むなど面白い要素があるので、この部分が、語り手と演技者を分離する文楽を模したクナウカ様式にぴったりなのは分かる。だが、そこにやたらと「凝る」のは『ハムレット』全体とのバランスを欠くし、「ゴンザーゴー殺し」である原作の劇中劇を「リチャード三世」に変えるなど、内容を変えてしまう「遊び」は何の意味があるのだろうか。多面的な作品にカットを入れることは、作品を変容させることでもある。カットの仕方がやや恣意的なので、全体として何を言いたいのか分からない劇になってしまった。7年前に日本で公演したピーター・ブルックの『ハムレット』は2時間半くらいだったが、ハムレットを巡る人間関係は丁寧に描かれて、なるべく残されていたように思う。少なくとも、「ああ、これがハムレットのエッセンスなのか」と感じさせる引き締まった感じがあった。


ナウカ風様式化になじみにくい例として、宰相ポローニアスの人物造形がある。ポローニアスは、なかなか魅力的で奥行きの深い人物である。彼はきわめて知的な「道化」で、舞台回しの役割をもつと同時に、短剣のような科白を振り回すハムレットを巧みにかわす受け答えの妙は、ただ者ではない。その屈折した二面性は、「自分が本当は何をしたいのか分からない」ハムレットをあぶりだす鏡のような存在であるのに、宮城演出では、ただ身振り手振りなどが面白おかしいだけの、お笑いキャラになっている。そしてまた、ハムレットの無二の友ホレーシオが、自動人形のように歩く滑稽な喜劇キャラになっているのはなぜだろうか? 最後、ハムレットの死の場面で、ホレーシオが毒杯の残りを飲んで死ぬ(?)のも解せない。死んだハムレットに向かって「王子よ、おやすみなさい、天使の歌を聞きながらやすらかに眠ってください」と慟哭する彼は、事件を生きたただ一人の「証人」として、ハムレットの死を超えて生きなければならないのではないか。終幕、金属の「ついたて」を倒す大きな音によって王、レアティーズ、ハムレットの死が再確認されるなかで、ホレーシオだけは、毒杯を飲んで倒れたにもかかわらず「ついたて」は倒れない。彼の死は曖昧にされているのだが、こういうのはどうなのだろうか。