(写真↓はすべて2017年国立劇場の舞台から、最初は中段の越後家、左から飛脚屋の忠兵衛、遊女の梅川、忠兵衛の友人の八右衛門、後方は遊女たち)
上中は近松の原作通りだが、下の段はまったく違い、野澤松之輔による改訂(1970)で、四人の太夫、四人の三味線により、舞台は踊り中心の短いものになっている。忠兵衛が実家に戻り父の孫右衛門が嘆く場はなく、梅川と忠兵衛の駆け落ち逃避行のみで、雪景色の終幕(写真↓)
『冥途の飛脚』はまず実際の事件があり、直ちに歌舞伎化され、その後近松が文楽にしたという成立事情がある。今回見て思ったのは、近松の作品は演劇的構成がきわめて優れていることである。その一つは忠兵衛と八右衛門の人物造形が歌舞伎版に比べてずっと深いことである。歌舞伎は役者の演技中心に成り立っているから、人物造形がどうしても善玉・悪玉に類型化しやすく、歌舞伎版では(私はまだ見ていないが)、八右衛門が金を取りたてる冷酷な悪役で、そのおかげで忠兵衛は公金を使い込んでしまう被害者・善玉らしい。しかし近松版では、八右衛門は友情に厚い男で、忠兵衛は自分の性格の弱さゆえにすべてをダメにしてしまうことが、とてもよく描かれている。近松作品はどれも、男と女の究極の愛を描いているわけだが、男性性の核心を、臆病なくせに虚勢を張って強がってみせるところに見ている。臆病と無鉄砲の間を揺れるといってもよいが、これが男性性のプロトタイプなのかもしれない。『曾根崎心中』の徳兵衛、『心中天網島』の治兵衛、そして本作の忠兵衛、名前も似ているが、女に対して強そうに振る舞う男の性格の弱さという点が共通している。男性性のこのように屈折した内面は、歌舞伎よりはむしろ文楽の方が描きやすいではないか。というのは、演劇には登場人部以外には「語り手」がおらず「地の文」がないので、登場人物の心中に入る手段が小説よりそのぶんだけ少ないからである。ところが文楽は、太夫が登場人物の科白を言うと同時に、地の文を語るので、演劇よりも感情移入の手段が豊富である。(↓忠兵衛と梅川)
『源氏物語』では、地の文の語り手が登場人物の心中に自由自在に出入りするので、それによって読者は登場人物に深く感情移入できる。それと同じことを、文楽においては浄瑠璃の「語り」がやっているわけで、それが通常の演劇に対して文楽という表現形式が持つ強みだと思う。その語りと三味線の旋律との競うような調和がシニフィアンとして観客の聴覚に与えられ、同時に視覚においては、生身の肉体の表情=感情とは違う無機質な人形が視覚対象(=シニフィエ)として与えられる。声(シニフィアン)と見え姿(シニフィエ)とを激しく分離してそれぞれの働きを極限にまで研ぎ澄まし、観客の想像力と他者への感情移入を最大化するのが文楽という表現形式なのだ。つまり、ラカンにおいて乳児が母親という「対象a」の「視線」と「声」から苦労して母親を認知する過程を再演している。そう考えると、今回の舞台における下段の短縮・改訂は、必ずしも改悪ではないのかもしれない。つまり、演劇のように役者のシニフィアンがすべてではなく、太夫がシニフィアンを代行できるからだ。今回の舞台は、無意識のうちにランガージュ化されている「人格」を解凍し顕現させるのは声=シニフィアンだけだ、というラカンの命題を思いこさせた。
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