(写真右はポスター、大量の水を張った凝った舞台。下は、開幕冒頭、沖合いの海戦を見守るヴェネチアの人々、そしてデズデモーナの死)
2009年の初演を見逃したので、今回初めて見る。『オテロ』はヴェルディ晩年の、最後から二作目のオペラ。シェイクスピアの原作をほぼ忠実な内容のままオペラ化し、成功した稀有の作品だ。40年前に作曲した『マクベス』が奇妙な作品だったのに対して、『オテロ』は演劇と音楽が完全に一体化している。それ以前のオペラは、ヴェルディもそうだが、歌を中心として全体が構成されていた。ドラマの進行と歌は一体化しておらず、歌とドラマが分離していたので、歌が歌われるシーンによってドラマの進行はいったん止まり、歌が終わるとまたドラマが進むという関係にあった。だが、シェイクスピアの作品はこのような様式にはなじまない。『オテロ』では、これまでのような、序曲、アリア、レチタティーヴォ、重唱、合唱などの区別に従うのではなく、オケがもはや伴奏とはいえない深みのある旋律を鳴らしながら、歌手も朗々と歌い、その歌はドラマそのものを進めてゆく。歌手たちとオケとの協奏曲といってよいだろう。
シェイクスピアの『オセロ』では、イアーゴの科白がもっとも多く、ある意味では彼が主人公のような劇である。自分自身が嫉妬深い人物であるイアーゴが、オセロの猜疑心を巧みに刺激して、オセロをも嫉妬の深みに引きずり込んでゆく。こうした高度な心理劇はオペラ化が難しいのだが、ヴェルディ『オテロ』はそこを成功させているから凄い。キャシオーの寝言とか、デズデモーナのハンカチをちらりと見せるとか、科白や行為が実に簡潔で、しかもそれらがなされるコンテクストが精妙なので、あたかもデズデモーナの不倫があったかのように自然に話が進んでしまう。シェイクスピアの原作はきわめて優れているが、ヴェルディはそこを非常に上手く取り込んで、歌に換えながらもドラマの流れを作り出す。
今回、演出は演劇出身で映画も作るマリオ・マルトーネだが、舞台上のイアーゴの位置や動きなど、実に見事に作られていた。イアーゴ役のバリトンはアルメニア出身のM.ババジャニアンだったが、姿勢や視線の動き、顔の表情などが生彩に富んでおり(私の席が前列中央2列目だったので、細部が見えた)、演劇の名優の演技を観ているような感じがした。オテロ役のテノールはW.フラッカーノ、デズデモーナ役のソプラノはM.ボルシ(彼女は昨年の新国『コシ』でとても若々しいフィオルディリージを歌った人)。演技も細部に渡って、ともに豊かな声量を聞かせて充実していた。