[今日のうた27] 7月1日〜31日
(写真は松平盟子、彼女は与謝野晶子の研究家でもある、その歌は、女性の強い自意識を謳うという点で晶子と共通点があるかもしれない)
・ 鎌倉や御仏(みほとけ)なれど釈迦牟尼(しゃかむに)は美男(びなん)におはす夏木立かな
(与謝野晶子『恋衣』1905、「緑あふれる夏の鎌倉、まぁ、大仏さまはイケメンだわ、うっとりしちゃう、あら、仏様にこんなこと言っちゃいけないかしら」、晶子らしいユーモア) 7.1
・ この夏の心を予約するように贈られている麦わら帽子
(俵万智『かぜのてのひら』1991、彼氏から贈られた「麦わら帽子」、これをかぶった夏の自分をあれこれ想像してみる) 7.2
・ 初真桑(はつまくは)四つにや断たん輪に切らん
(芭蕉1689、「おお、今年初めての真桑瓜だ、おいしそうだな、十文字に切ろうか、それとも輪切りにしようか、早く食べたいな」、当時の真桑瓜は今のメロンのように美味しく感じられたのか) 7.3
・ 石工(いしきり)の鑿(のみ)冷したる清水かな
(蕪村1768、「石切り場の石を切って熱せられた鑿が、ときどき清水の中に漬けられ、一気に冷やされる、ずいぶん冷たい清水なのだ」、熱い鑿を冷やす清冽な清水) 7.4
・ 乱れざる花をばややに乱しつつ呼気吸気いまだ浅きくれない
(坂井修一『ラヴュリントスの日々』1986、27歳頃の作、真面目な学者である作者には珍しい性愛の歌、「花」とは彼女の隠喩) 7.5
・ 筋肉の収縮はきっとあなたのほうがよくわかっているわたしのからだ
(林あまり『ベッドサイド』1998、性愛を過激に謳う作者1963〜だが、この歌は反省的・思索的ニュアンスもある、「筋肉の収縮」というニュートラルな修辞と、残りをすべて平仮名にしたのが巧い) 7.6
・ 夏はきぬ相模の海の南風(なんぷう)にわが瞳燃ゆわがこころ燃ゆ
(吉井勇『酒ほがひ』1910、作者1886〜1960は伯爵家に生まれ、若い頃はよく遊んだ人、江の島あたりに彼女と海水浴に行くのか、湘南海岸は、今も昔も若者のデートスポット) 7.7
・ 胸板がガラスのやうに光るゆゑ向きあへぬ ポプラ真夏のポプラ
(永井陽子『なよたけ拾遺』、20代前半の作、ポプラの樹は孤独な作者の友人のような存在なのか、その胸に飛び込んでいきたいが、葉が緑色に輝いてガラスのように光っていて、眩しすぎて拒絶されるように感じるのか) 7.8
・ 泳ぎ来てプールサイドをつかまへたる輝く腕に思想などいらぬ
(松平盟子『帆を張る父のやうに』1979、作者は二十代前半、自分の輝くような肢体に自信が溢れる、「思想などいらぬ」という結句がいい) 7.9
・ はつ夏の夕べ木槿(むくげ)は白く咲き詩のごとき愛捧げてみたし
(栗木京子1974頃、作者は20歳の京大生、「二十歳(はたち)の譜」の一連の歌の中には、大好きな彼のことを詠った透明感のある純愛の歌が並ぶ) 7.10
・ 手を懸(かけ)て折らで過ぎ行く木槿(むくげ)かな
(杉山杉風(さんぷう)、作者は芭蕉の弟子、「美しい木槿の花が咲いている、一枝折っていこうと手をかけたが、ふと思い直して、そのまま折らずに行った」) 7.11
・ 競(くら)べ馬一騎遊びてはじまらず
(高濱虚子1925、「松山の草競馬に来たよ、さあスタートだ、あれっ、馬の一頭が並ぶ列からはずれて、ぷらぷらしてる、これじゃ始まらないじゃん」、田舎の草競馬をユーモラスに活写、「競馬」はなぜか夏の季語) 7.12
・ クロールの夫と水にすれ違ふ
(正木ゆう子2002、「プールのコースを平泳ぎしている私、隣のコースをクロールで泳ぐ夫とすれ違った」、一緒にスイミングに行く仲良し夫婦) 7.13
・ 昨日今日嘆くばかりの心地せば明日に我が身はあはじとすらん
(相模『後拾遺和歌集』、「明日あたり行くかもねっていう、お気楽な手紙を私に寄こしたわね、よく言うわよ、私はね、昨日も今日も貴方を待って悶え苦しんでいるのよ、明日になったらきっと、もう会いたくないって気持ちになるかもね」、訳の前半は詞書) 7.14
・ つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降(あまくだ)り来んものならなくに
(和泉式部『和泉式部集』、「ぼーっとして空を見ている私、ああ、彼氏が空から降ってくればいいのになぁ、でもたぶん無理だろうなぁ」) 7.15
・ 大夕焼けわが家焼きたる火の色に
(鈴木真砂女1961、「素晴らしい夕焼けだわ、まぁ、私の家もすっかり夕焼け色に、燃え上がっちゃうんじゃないかしら」、真砂女らしい豪快なユーモア句) 7.16
・ 戦(たたかひ)はそこにあるかとおもふまで悲し曇のはての夕焼
(佐藤佐太郎『帰潮』、1948年の作、この頃の作者の歌には、戦争の記憶や悲しみを詠ったものがある、真っ赤な夕焼けは、空襲に燃え上がる街や戦場の砲火を想起させるのか) 7.17
・ 悲しみが溢れ出たらあのようになるのだろうか、真っ赤な夕焼け
(吉沢あけみ『うさぎにしかなれない』1974、大学を卒業して教師になったばかりの作者、子どもたちと喜怒哀楽をともにする毎日、真っ赤な夕焼けを見て、あれは悲しみだろうかと考えてしまう) 7.18
・ ゆりあまた束ねて涼し伏見舟
(黒柳召波、「百合をたくさん積んだ船が伏見の港に入ってきたよ、涼しそうだなぁ」、作者1727〜72は蕪村の弟子で京都の人、当時、宇治川の伏見港は物流の拠点として船で賑わった) 7.19
・ ほのぼのと舟押し出すや蓮の中
(夏目漱石、明治40年頃の作、「蓮の花がたくさん咲いている池に、つーっと小舟が押し出される、ほのぼのとした情景」、眺めている漱石に何かいいことがあったのだろうか、「ほのぼのと」が素晴らしい) 7.20
・ 痩(や)せて人のうしろにありし裸かな
(西島麦南1915、「徴兵検査、痩せた自分の体が恥ずかしいので、隠れるように、前の人のうしろにぴったり並ぶ」、作者1895〜1981は、岩波書店の名校正係として知られた人、戦争末期には反戦的な言辞で拘留もされた、戦争をしない国になった戦後の日本は素晴らしい) 7.21
・ 象潟(きさかた)や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花
(芭蕉1689、「秋田の名勝地、象潟に来たよ、合歓の花が雨に濡れてやや萎れている、愁いを含んでうつむく姿が美しいと言われる中国の伝説的美女西施は、この合歓の花のように美しかったのか」、蘇東坡の漢詩を踏まえる) 7.22
・ 満月に隣もかやを出たりけり
(一茶1796、「いい満月だなぁ、おっ、お隣さんも蚊帳からごそごそ這い出してきたぞ」、どこか人の温もりが感じられるのが一茶の句) 7.23
・ かの時に言ひそびれたる/大切の言葉は今も/胸にのこれど
(石川啄木1910、『一握の砂』中の「忘れがたき人人」にある歌、今は別れてしまったある女性への忘れられない思い、それは「言いそびれた言葉」の記憶と一体になっている) 7.24
・ 声だけでいいからパパも遊ぼうと背中にかるく触れて子が言う
(松村正直2006、作者は1970年生れ、歌誌『塔』編集長、いつもパソコンに向かっているのか、忙しい父になかなか遊んでもらえない子が「声だけでいいから」とせがむ) 7.25
・ ああいやだいやだわというこの声も半世紀ほど生きてきたりぬ
(佐伯裕子2007、「50年の人生で私は、「ああいやだ」「いやだわ」と何回言ったかな、とっても数えきれないわ」) 7.26
・ てぶくろのはんたいを言へとくりかへす子を抱へあげさかさにつるす
(真中朋久2004、やぁ、お父さん、子どもと上手に遊んでやっていますね) 7.27
・ 病める児(こ)はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑(ばた)の黄なる月の出
(北原白秋1909、「病気の子どもは、外に遊びにも出ず、一人でハーモニカを吹いている、もう夜になったなあ、唐黍(とうきび)の畑に黄色い月が出たよ」) 7.28
・ 翅(はね)わつててんたう虫の飛びいづる
(高野素十1947、「翅わつて」が見事、テントウムシが飛び立つ瞬間をうまく捉えた、対象の端正な記述が詩になるのが虚子の言う「客観写生の句」、作者はその第一人者) 7.29
・ あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中
(穂村弘『ドライ ドライ アイス』1992 、昨日の素十「翅(はね)わつててんたう虫の飛びいづる」と似た瞬間を捉えた、こちらは「まっぷたつ」「と思ったら飛び立っただけ」という、作者らしいユーモラスな見立て) 7.30
・ 夏草に汽缶車の車輪来て止まる
(山口誓子1933、作者の代表作の一つ、「蒸気機関車の車輪が、線路ぎわに茂っている夏草の傍らに、軋んだ音をたてながら止まった」、質感の表現が卓越、熱さ(=暑さ)もひしひしと伝わる) 7.31