今日のうた59(3月)

charis2016-03-31

[今日のうた] 3月 (写真は栗木京子1954〜、角川短歌賞次席であった「二十歳の譜」1975は、瑞々しい恋の歌で知られる、現在、読売歌壇選者)


・ 春の濱大いなる輪が書いてある
 (高濱虚子1932、「春の海岸、砂浜に大きな輪が書いてある」、「片瀬西浜」とあるから、江の島のところの湘南海岸だろう、単純だが見事な叙景の句) 3.1


・ 春潮を入れて競艇場休み
 (星野恒彦『麥秋』1992、レースのない日の競艇場はとても静か、客もいなければボートもいない、ゆったりと海水が波打っている、「春潮を入れて」がいい) 3.2


・ 雛飾りつゝふと命惜しきかな
 (星野立子『春嵐』、作者1903〜84は虚子の次女、この句は50歳を前にした頃の作と言われる、「自分が幼い頃から慣れ親しんだ雛人形を、今年も取り出して飾っていると、ふと、命が惜しく感じられる」、自分の雛人形が自分の人生と重なってみえる、今日は桃の節句) 3.3


・ 今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春べとなりにしものを
 (よみ人しらず『万葉集』10巻、「今さら、雪が降るなんてことがあるもんか、だって、野にこんなに陽炎が燃え立つ春になったのだもの」、調べのよさが万葉らしい) 3.4


・ 春日野(かすがの)は今日はな焼きそわか草のつまもこもれり我もこもれり
 (よみ人しらず『古今集』巻1、「早春の野焼きは毎日行われているけれど、この春日野は、今日だけは焼かないでほしいな、僕の若い妻も、そして僕も、こもって野遊びしているのだから」、与謝野晶子の「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」は、この歌のもじり) 3.5


・ 帰る雁いまはの心有明に月と花との名こそ惜しけれ
 (藤原良経『新古今集』巻1、「春の明け方、北国へ帰ってゆく雁が、今にも飛び立とうとしている、情緒ある有明の月でさえも、この美しい花でさえも、それを止めることはできないのか、残念だなぁ」) 3.6


・ わが春やタドン一ッに小菜一把(こないちは)
 (一茶1805、一茶は43歳、とても貧しかった、少し前の立春に詠んだ句に「春立つや四十三年人の飯(めし)」とある) 3.7


・ 春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)
 (芭蕉1685『野ざらし紀行』、「奈良に出づる道のほど」と前書、名もない平凡な低い山々だろう、そうした山々へうっすらと霞がかかっているのが、春らしい気分) 3.8


・ 畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
 (蕪村1781、空のあそこにあった雲が、いつの間にかなくなっている、いかにも蕪村らしい名句) 3.9


・ 最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら
 (ゆず・女・18歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、いつもは「ありがと」「さよなら」と言っていた二人、別れなのだろうか、「ありがとう」「さようなら」と言うね、と、何だか切ない) 3.10


・ 青信号の中で歩いている人が歩いてくのを見たことがない
 (一戸詩帆・女・21歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、横断歩道の絵付き信号だろう、赤と違って青信号は、「歩いている人」の絵が描いてある、しかしその「固定ぶり」が、実際に横断歩道を渡っている人にはちょっと可笑しい) 3.11


・ 「目的地周辺です」と言ったきり君はどこかにいってしまった
 (一・男・23歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、あるある、こういうカーナビ、でもひょっとして、高級なカーナビなら、もっと丁寧に案内するのだろうか) 3.12


・ 母情より父情がかなし大試験
 (田島澪、大学入試のとき、母親は何かと心配で細かく子供の世話を焼くが、父親は照れ臭いので、そのような「愛」を目一杯表現することはしにくい、作者は受験生の母だろうか) 3.13


・ 二次会のあとついてゆく朧(おぼろ)かな
 (中原道夫、三月は年度末で飲み会も多い、一次会で帰るつもりだったのに、つい二次会にも行ってしまった、もう後はやめられない、たぶん三次会と思われるどこかへ、千鳥足であとをついてゆく、意識も少し朧げに、「春は朧だなぁ」) 3.14


・ 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る
 (能村登四郎、人気のないだだっ広い競技場で、選手が槍投げの練習をしているのだろう、槍を投げて、飛翔をじっと見詰め、そして、刺さったところへゆっくり歩み寄る、時間がゆったり流れている映像を見るようだ) 3.15


・ 生きたいやうに生きる女と一畳をへだててさびしき声は難ずる
 (米川千嘉子『夏空の櫂』1988、新婚まもない頃の歌か、作者も夫もともに歌人で個性の強い人、「君は自分の生きたいように生きる女なんだ」と、「一畳をへだてて」蒲団を並べている夫が「さびしく」しかも非難がましく言ったのだろう) 3.16


・ きみが靴にわが小さきを並べ置くそれさへ不可思議のごとき朝(あした)よ
 (今野寿美『花絆』1981、新婚の頃だろう、「朝出かける前に、夫と自分の靴の両方を玄関に並べる、それがとても不思議な感じがする、これが結婚なのね」、『花絆』は、小野茂樹『羊雲離散』と並ぶ素晴らしい恋の歌集) 3.17


・ 人にまぎれ回転扉押すやうに幸せにふと入りゆけぬか
 (栗木京子『水惑星』1984、新婚直後の歌、「二十歳の譜」の頃の、心の底から湧くように溢れ出てくる相聞歌に比べると、この時期の歌は反省的で懐疑的) 3.18


・ 雪解(ゆきどけ)の故郷出る人みんな逃ぐるさま
 (寺山修司「牧羊神」1954、寺山もこの年の春に青森から上京して早稲田大学に入学した、その時の句、「みんな逃ぐるさま」とは、自分も含むのだろう) 3.19


・ 忘れものみな男傘春の雨
 (三輪初子『喝采』1997、作者は夫婦でレストランを経営している人、レストランで傘を忘れていくのは男性ばかりというのが面白い) 3.20


・ こんなところに釘が一本打たれいていじればぽとりと落ちてしもうた
 (山崎方代『右左口(うばぐち)』1974、作者1914〜85は、復員後、職もなく、孤独に生きた人、この歌も、ユーモアの中に淋しさが漂う) 3.21


・ いつのまに威風あたりを払うまで四十となりし髪細らねど
 (紀野恵2004、40歳になった作者、「威風あたりを払う」ようになった堂々たる自分を意識する、女性の40歳はそんなに貫禄がつくのだろうか、どこかユーモラスな歌) 3.22


しらさぎが春の泥から脚を抜くしずかな力に別れゆきたり
 (吉川宏志、作者は1969年生れ、しらさぎがゆっくりと脚を抜いて、脚先がスッと泥の外に出てきた、籠められていた力も抜けて) 3.23


・ どの角を曲がりても同じ猫がゐてこの春昼の路地を出られず
 (小島ゆかり『ごく自然なる愛』2007、その近辺には猫がたくさん飼われているのだろう、色や模様が近いので「同じ猫」に見えてしまうのか、あるいは「同じように」猫がいるということか、一匹一匹どの猫も気になる猫好きの作者) 3.24


・ 故郷はいとこの多し桃の花
 (正岡子規1895、27歳の子規は、日清戦争の末期、中国の大連に記者として従軍出張する途中、故郷の松山に寄った、そのときの句、中国からの帰りの船中で子規は喀血して倒れた、今年は桃と桜が一緒に見られる) 3.25


・ 水温む鯨が海を選んだ日
 (土肥あき子『鯨が海を選んだ日』2002、哺乳類のクジラは、昔々のある日、海を自分の棲む場所に「選んだ」のだろうか、あるいは、このクジラが今日この湾に「やって来た」ということか、いずれにせよ「海を選んだ日」がすばらしい、春の暖かい日に海が広がる)  3.26


・ 朧夜(おぼろよ)のむんずと高む翌檜(あすならう)
 (飯田龍太『山の木』1975、「あすなろ」は檜に似た樹の名だが、檜ほど高く伸びないので、いつも「明日は(檜に)なろう」と思っている、つまり伸び盛りの若者の隠喩、この句は、あすなろの若い樹だろう、「むんずと高む」がとてもいい) 3.27


・ 窓に置く鉢の花にも折々の心を込めて人はありしか
 (大島史洋『幽明』1998、おそらく故人をしのんでいるのだろう、その人の部屋の窓には鉢が残されており、美しい花が咲いている) 3.28


・ 春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも
 (大伴家持万葉集』巻17、作者は孤独を感じているのだろう、「うら悲し」がこの歌の肝、ゆったりと春の野に霞がたなびき、鶯も鳴いている、それがどういうわけか「寂しく、悲しい」) 3.29


・ 願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはゞや
 (佐佐木信綱1899、作者1872〜1963が主宰する結社「竹柏会」第一回大会で詠んだ歌、自分を春風に喩え、自分が歌を詠むことは、春風が憂いを持つ人の心を晴らすようなものだと、彼の短歌観を述べた、「竹柏会」は歌誌「心の花」を刊行し、現在も活発に活動をしている短歌会、佐佐木幸綱俵万智などがいる) 3.30


・ 初蝶を追ふまなざしに加はりぬ
 (稲畑汀子、誰かが「あっ、ちょうちょ!」と言ったのだろう、「えっ、どこ?どこ?」と、作者もその蝶を一生懸命まなざしで追いかける、「追ふまなざしに加わりぬ」が卓抜) 3.31