青年団『さよならだけが人生か』

charis2017-06-29

[演劇] 平田オリザ『さよならだけが人生か』 青年団 吉祥寺シアター 6月29日


(写真右は、舞台全景、かなり大きな住宅地造成の工事現場に作られた飯場(はんば)、たまたま遺跡が発見されたので工事が一時ストップし、考古学の調査に大学院生たちや、建設会社本社の社員、文化庁の調査官などもやってくる、つまり普通なら会わない人たちがたまたま会ってしまう、写真下は練習風景だが、本番の終幕とほとんど同じ光景)

1992年初演(平田オリザは30歳)、劇団の出世作となった『さよならだけが人生か』が再再演された。蜷川、野田といったスペクタクルで見せる演劇と違って、まったく新しいタイプの「静かな演劇」を平田が創出したことがよく分る。劇的なことは何も起きず、日常の光景がただ描かれるだけ。主人公や、主要キャラクターはなく、登場人物全員で劇が作られている。一見の客のように、飯場でたまたま会った人たちが、知り合ってすぐまた別れてゆく短時間の光景がすべてなのだ。ひょっとして物語に流れる時間は、リアルな上演時間約100分と同じかもしれない。しかし、一幕一場という演劇の原点を踏まえ、考え抜かれて作られた名作だと思う。


本作は、演劇的な言語はほとんどなく、日常会話だけで成り立つ劇である。普通の日常会話が、だらだらと続くだけのように見える。ぴたりと決まる会心の科白はほとんどなく、誰の発言も何となく要領の得ないものばかりで、意を尽せない。言い足りないか、あるいは言い過ぎたりかで、コミュニケーションはいつまでも不完全燃焼のように見える。しかし、話があっちに飛び、こっちに飛ぶ中から、少しづつ共感が生まれてきて、互いに親しみと愛おしさが感じられるようになる。だから、すぐに別れることになる、その「さよなら」が寂しく感じられるのだ。


よく聞いていると会話が非常に面白い。人々はお互いに何となく要領を得ないことしか言えないのだが、しかしそこからキャラや個性が現れてくる。まず、会話には、間接音というか、間(ま)を取るためのつぶやきがとても多い。「あ」「あぁ」「ん?」「うーん」「はぁ」「え」「そりゃ」「えぇ」「まぁ」「おっ」「あの」「へー」「いや」「・・か」などがやたら多い。小津映画の語彙の乏しい会話の味わいともまた違う。たとえば、考古学の大学院生の高木(女)と藤野(男)、文化庁調査官の星野(女)との会話はこんな感じである。藤「どうも」星「どうも」高「どうぞ、どうぞ」星「はい」藤「すみません、仕事になんなくて」星「いえいえ・・・」星「なんか、いいですか?」高「え?」星「いやいや」高「大丈夫です」星「(座って)付き合ってる?」高「え、いえ、あぁ、はい、まぁ。」星「うん」高「もうすぐダメかもしれませんけど」藤「そんなことない、・・・」星「いなかったねぇ、ミイラ男」高「えぇ」星「残念」。実は、これは非常に奇妙な会話なのである。高木と藤野は恋人同士で、高木がじき留学するので、少しぎくしゃくしている。そこへ、初対面の星野が「あなたたち付き合ってるの?」と単刀直入に尋ねるのは、普通はありえない。高木は、「え、いえ、あぁ、はい、まぁ。」と動揺する。


星野という女性は、相当にぶっ飛んだ変な女で、黒スーツをさっそうと着こなした美女であるが、実はずっこけキャラなのだ。彼女がほとんど観客に背を向けて話すのは、たぶんそれが理由だろう。たとえば、さえない中年社員の大蔵が、若者の会話を横で聞いていて、「(彼らは)若いね」と羨ましく思い、部下の若い女性社員月島と、横にいる星野とに同意を求める会話はこうである。大「なんか、会話が若いね」月「確かに」大「若いですよねぇ」星「え、いや、私も若いですから」大「すいません」。星野が「え、いや、私も若いですから」とシレっと言うのも可笑しいが、大蔵が「すいません」と謝るのも可笑しい。終幕、ある社員の娘が結婚することになりそうで、それを話題にする会話。月「最近は、仲人とか、あまりいないんですよ」大「え、そうなの?」月「はい」大「さすが、詳しいね」月「はい、研究だけはしているんで」大「おぉ」星「大事ですよね、研究は」月「はい」星「はい」。何という楽しい会話だろう!「研究だけはしているんで」「大事ですよね、研究は」という若い二人の女性の科白。こういう少し変な会話を通じて、お互いの、そして我々観客との間に、何ともいえない共感が立ちあがる。


本作の登場人物は、みな少しダサいというか、あか抜けない人ばかりで、いかにも冷たいエリートという感じの人はいない。星野はたぶんエリートなのだろうが、ずっこけている。誰の会話もどこか変なところがあり、登場人物は皆少しずつ変わったところがある。だが、考えてみれば、これこそが我々の姿なのではないだろうか。チェホフほど強く前景化されてはいないが、登場人物はみなちょっとだけ変であり、そしてそこがとても愛おしい。舞台では、無口な人も含めて全員が生き生きしている。こうした飯場での出会いと別れのように、ぎこちない出会いと、共感、そして別れ。これが我々の人生そのものの愛おしさなのだろう。この劇が終ったあと、登場人物の一人一人が愛おしく感じられるように。