ケラ 『キネマと恋人』

[演劇] ケラリーノ・サンドロヴィッチ『キネマと恋人』 世田谷パブリック 6月19日

(写真下は舞台、ダンサーによる舞台装置の入れ替えなど、全編にダンスが溢れている、ダンサーも役者をやり、役者もダンスを踊る、人間の身体は美しい!)

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 ケラを観るのは、『労働者M』『修道女たち』に次いでこれが三作目。物語の構想力に卓越しており、ややクセのある尖がった不条理劇を作る人かと思っていた。しかし本作は違う。胸キュンのロマンティック・コメディーで、抒情的で美しく、映画で言えば『ローマの休日』や『サウンドオブミュージック』みたいな作品だ。ウッディ・アレンの映画『カイロの紫のバラ』をほぼ踏襲しており、そこではスクリーンの中からスターが出てきても、やはり全体は映画の内部だが、『キネマと恋人』では、人がスクリーンから実在する空間へ出てくるので、そこがとても面白い。スクリーンから生身の人間が実在空間に出てくるというのは、隣りの部屋から出てくるのとは違う。スクリーンからある役者が出てくれば、スクリーンの外部で、その役を演じている俳優本人とばったり会うことになる。本作では、妻夫木聡が、映画の中の「まさか寅蔵」とそれを演じる俳優の高木を一人二役で演じるが、二人が会う場面では、別人がお面を付ける。いずれにせよ、舞台の人物と設定が目まぐるしく変るのが本作の特徴で、ダンサーがくるくると体を回転させながら踊るように舞台装置を動かすのが本当に美しい! 要するに本作は、映画と演劇とダンスと音楽が融合して、全体が詩的で抒情的な美しいミュージカルに昇華している。

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 アンドレ・バザンによれば、演劇と映画は「空間の経験」の仕方が違う。演劇は、観客と役者が地続きに同じ部屋にいるから、自然とはちがう人工的で特権的な空間であるのに対して、映画は、家の中から窓の外の自然を見るような空間経験であるから、人物とともにその背景が重要な役割を果たす(『映画とは何か』)。本作も、映画の内容は江戸時代の侍ものだが、スクリーンのある映画館は、1936年の青森県(?)あたりの田舎町である。本作でとても面白いのは、映画のスクリーンの中の役者たちが、スクリーンの外の演劇空間にいる俳優と視線を交わし対話するだけでなく、観客である我々の方にも視線を向けることである。物語は、モボ(モダンボーイ)やモガ(モダンガール)がでてくる昭和レトロで、とにかく懐かしい雰囲気に溢れている。映画の中の憧れのスターと恋をしてしまうハルコ(緒川たまき)は(写真下↓)、本当に愛おしくて可愛い。作中では36歳の人妻なのだが、彼女はどこまでも少女なのだ。そして、本作で一番よかったのは、姉のハルコと妹のミチル(ともさかりえ)の姉妹愛である。妹も32才で、男性の好みは姉と違うのだが、彼女もまったくの少女で可愛い。二人が喧嘩したり、しみじみと語り合ったり、キャッキャッとはしゃぐところは、本当に愛おしい。とはいえ、本作のエンディングは悲しい。実在の俳優に恋したハルコは、一緒に東京に行こうとするが、彼は、彼女を置きざりにしたまま、一人で東京に帰ってしまう。スクリーンのスターと恋するなんて、やはりそれ自身が夢だったのだ。失恋した彼女は打ちのめされるが、しかし再び映画館で映画を見ることによって立ち直る。やはり失恋した妹と並んで見る二人の顔に、笑顔が戻って終幕。(写真一番下は、妹のミチル) 

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