[演劇] 平田オリザ 『眠れない夜なんてない』 吉祥寺シアター 2月1日
(写真↓はポスター、劇の本質をよく象徴している。昔のうらぶれた銭湯のようなところの靴箱だろうか、でもよく見るとパスポートと札束があり、ごく普通の人の人生にも、それぞれ違った過去があり(個々の箱は記憶の在り処)、それを深く身体に内面化して現在を生きていることを示している、そしてラカン的に言えば、この靴箱は、「無意識のうちにランガージュ化され構造化された自我であり、他者のシニフィアンによって解凍されるのをまっている」姿、ということになる)
いかにも平田オリザらしい傑作。アリストテレス「三一致の法則」を守り、一幕一場、場所はマレーシアにある日本人退職者居住用のリゾート施設のラウンジ。客席の110分の時間の流れが、舞台にも同じ110分間の出来事として生起する。いろんな人がラウンジに来て、ちょっとした会話をして、それぞれ去ってゆく。それだけ。でも、どうってことのない普通の人の一人一人の身体には、何と多様で個性的でそれぞれに重い過去の時間が内面化されていることだろう。そして、「今ここ」にいる彼/彼女が、ポツリと語る言葉からそれが分るのだ。一人の人間の人生には、喜びと悲しみが一杯に詰まっている。彼/彼女がそのように生きているという、ただそれだけのことが、なぜこんなに愛おしく感じられるのだろう。演劇は、私たちが、「今ここ」の時空を生身の俳優たちと共有することによって、人間が生きることの愛おしさの感情をともに分かち合い、共感するためにある。アリストテレスの言う、「生の再現(ミメーシス)」、しかも「必然性のある可能態としての再現」、これが演劇だ(『詩学』)。そして、さらに付け加えるならば、わたしたちはそのような劇場という時空の場を共有することによって、癒される。そう、演劇において私たちは、カウンセリングや精神分析のように、一人一人が自分の心と向き合って癒されるのだ。通常これは、悲劇における「カタルシス」として説明されてきたが、しかし別に悲劇ではなくても、たとえばチェホフや平田オリザのような、かすかな喜劇、静かな喜劇においても、同様な心の癒しが起きている。私たちはこうした共感によって、互いに癒し合うことができるから、夜もやすらかに眠ることができる。「眠れない夜なんてない」とは、そういう意味だろう。そして本作では、各人が自分が見た「夢」のことをたくさん話す。まさに、精神分析そのものなのだ。
今回、平田オリザの演劇は小津の映画によく似ていることに気づいた。上の写真の左端は、マレーシアに移住した60歳の日本人の元サラリーマン(山内健司)。その右は父を尋ねて日本から来た娘。父は娘に結婚しろと勧めるが、娘は結婚を嫌がり「お父さんのそばに一緒にいたい」という。父は、どういうわけか日本に帰りたくない。その理由は本人にもよく分からないのだが、おそらく戦争体験と関係がある。「今」は1988年の暮れ、昭和天皇重態のため日本ではコロナ禍と同様、「自粛」が強制されている。だから、マレーシアにいても、過去の戦争の心の傷がかすかにうずく。写真↑中央の黄色いシャツの男は70歳くらいの元サラリーマン。そして、その妻と、やはり日本から尋ねてきた二人の娘。彼も癌かなにかの病気なのだが、日本に帰りたがらない。二人の男は、静かに談笑するだけだが、突然、感情を乱して軍歌を歌ったりする。私は『秋刀魚の味』を思い出した。そういえば、平田の劇も小津と同じくすべて家族劇・茶の間劇で、科白も、小津の「えぇ・・、まぁ・・」「そうでもないですよ」「そうなのかな・・・」「そうですよ、おとうさん・・」といったボキャ貧の会話とよく似ている。そのボキャ貧のさりげない会話の中に、その人の人生のもっとも本質的な部分が、そう、彼/彼女の現存在そのものが、喜びや悲しみの感情を伴って、スッと現れる。
人間というものは、ただ生きているだけで、何と愛おしいのだろう。人間の自我というものは、ラカンによれば、無意識のうちにランガージュ化されて構造化されており、それが他者のシニフィアンに触発されることによってのみ、「心」として現実化される。それが「人間が生きる」ということなのだ。平田や小津の作品は、それを見事に「再現」している。そして今回あらためて、山内健司や松田弘子がすばらしい役者であることに感嘆した。人間は、こんな状況で、他者のこんなシニフィアンに触発されれば、こんな感情が生起し、こんなシニフィアンを他者に返す。それを「必然性のある可能態」として「再現」できるのが、すぐれた役者なのだ。文学がエクリチュール→シニフィアンによって「再現」するのに対して、演劇はそれに加えて役者の生身の身体「対象a」(ラカン)が存在するだけ、より豊かな「再現」が可能になるわけだ。(写真↓、右端が松田弘子)