今日のうた74(6月)

charis2017-06-30

[今日のうた] 6月1日〜30日ぶん


(写真は西田幾多郎1870〜1945、詠んだ200首近い歌が『西田幾多郎歌集』(岩波文庫)に収められている、西田の歌は概して説明的で上手いとはいえないが、心情を詠んだ歌に味わい深いものがある) 


・ 御手討(おてうち)の夫婦(めをと)なりしを更衣(ころもがへ)
 (蕪村、「不義密通で本来なら御法度になるはずの若い男女が、何らかの理由で許されて、ひっそりと夫婦として暮らしている、その夫婦が衣替えでさっぱりしている」、若い武士が人妻に恋したか、でも作者は共感している) 6.1


・ 麦の穂を力につかむ別れかな
 (芭蕉1694、芭蕉が最後の旅に出る時、江戸で門人たちとの別れの句、老衰と病気で弱っていた芭蕉は、よろけそうになって思わず麦の穂を掴んでしまったのか、「力につかむ」に鬼気迫るものがある、半年後に旅先で没す、今、麦秋が美しい) 6.2


・ 子燕のこぼれむばかりこぼれざる
 (小澤實1986、「ツバメの巣では子ツバメたちがどんどん育っている、小さな巣はもう一杯で、縁からこぼれ落ちそうだけれど、しかし不思議なことに、こぼれ落ちないんだな」) 6.3


・ にさんにちむすめあづかりあやめ咲く
 (室生犀星1935、作者は45歳、当時11歳の娘がいた、家族とは別に単身で過ごしているところに、二三日娘が泊まっていったのだろう、ちょうどあやめも咲いた、平仮名書きや、「あづかり」とおどけてみせたところに、作者らしい優しさが) 6.4


・ 楽浪(ささなみ)の滋賀の唐(から)埼さきくあれど大宮人の船待ちかねつ
 (柿本人麻呂万葉集』巻1、「楽浪の滋賀の唐埼は、琵琶湖湖畔の美しい港町、幸いにして今もここは美しいけれど、ここから船出して湖上に遊んだ大宮人たちの船は、いくら待っても帰ってこない」、都は大津から奈良に戻り、荒れ果ててしまった) 6.5


・ 振り仰(さ)けて若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも
 (大伴家持万葉集』巻6、「大空を仰ぐと三日月が目に入ります、ああ、この三日月は、たった一度しか会ったことのない貴女の、あの美しい眉を思い出させてしまうのです」、作者は16歳、もっとも若い時の歌) 6.6


・ 夏の夜のふすかとすれば郭公(ほととぎす)鳴くひと声にあくるしののめ
 (紀貫之古今集』巻3、「夏の夜は本当に短いなあ、床に臥したと思ったら、ホトトギスが一声鳴いて・・・そんな風にうとうとしていたら、もう外は白々と明るくなっている」、作者は23歳、現存する最初期の歌) 6.7


・ 銃後といふ不思議な町を丘で見た
 (渡邊白泉1938、作者1913〜69は戦前の新興俳句運動の旗手の一人、1940年京大俳句事件で治安維持法により逮捕され、執筆禁止になる、戦争を詠んだ鋭い句が多い、この句はおそらく東京のどこかだろう、すでに日本全国が戦時体制になっている) 6.8


・ 赤い花買ふ猛烈な雲の下
 (富澤赤黄男『天の狼』1941、作者1902〜62は新興俳句運動の担い手の一人、象徴的で不安を強く表現した句が多い、この句も、召集されて中国各地を転戦している時のもの、だが「猛烈な雲」は日本でもありうる光景) 6.9


・ 頭の中で白い夏野となつてゐる
 (高屋窓秋『白い夏野』1936、作者の代表作だが、不思議な句である、かつて見た緑あふれる夏野が記憶の中で「真っ白」になっているのか、それとも、眼前の夏野を、戦争が近づく死の恐怖からこれを現世の想い出として予感しているのか) 6.10


・ 心をも身をもたのまず今は唯あるにまかせて世をやをくらん
 (西田幾多郎1907、西田の短歌は概して説明的で、上手いとは言えないのだが、これは心情がよく表れている、作者は37歳、小さな娘が二人死んだ年で、辛いことが多かったのだろう) 6.11


・ たをやめとタンゴを踊るわが命たまゆらなれど笑へる命
 (九鬼周造1926「巴里心景」、1924〜27年パリ滞在中に与謝野鉄幹の雑誌『明星』に変名で投稿した歌群の一つ、「いきの人」九鬼周造にはパリでの恋もたくさんあったのだろう、「笑へる命」というのが、いかにも九鬼らしくていい) 6.12


・ 日の本の大きな平和(たひらぎ)に入らむ日を恋ひつつ君の逝かしたるはや
 (南原繁1944「三谷隆正君を憶ふ」、作者1889〜1974は東大学長を務めた政治学者、アララギ派歌人でもあり、戦時下を詠んだ歌集『形相』は心に沁みる歌が多い、本歌はともに内村鑑三の弟子であった親友三谷を悼む) 6.13


・ かくばかり世は衰へて ひとりだに 謀反人なき 国を危ぶむ
 (岡野弘彦『バクダッド燃ゆ』2006、前川喜平前次官だけでなく、文科省の内部にも、安倍政権の強権政治に反対する人々がいる、加計学園の文書流出は公益通報者保護法で守られるべきだ) 6.14


・ おおいなる群衆が議事堂を囲むなか激し美しすべて若き人
 (前田透『煙樹』1968、作者1914〜84は前田夕暮の息子で、歌誌「詩歌」を父から継承、この歌は60年安保闘争だろうか、私自身もここ数年、国会前の集会には何度も行っているが、「すべて若き人」ではないのが少しさびしい) 6.15


・ 豊かなる世にありなれて人の飼ふ権勢症候群といふ犬あはれ
 (松生富喜子『中空の空』2009、NHKにもいるが、権力におもねるジャーナリストたち、そして大学にもたくさんいる、御用学者たち) 6.16


・ 孕(みごも)れる妻も厨に聞きてあらむ憲法改正派三分の二を制せざりしを
 (岡田久雄蒼穹」1956、1956年の選挙の結果のことだろう、憲法改正派が三分の二にならなかったことを喜んでいる、それから60年後の今、改憲をもくろむ安倍政権、いよいよ正念場だ) 6.17


・ 記憶なき記憶なつかし橡(とち)の花
 (富安風生、トチノキは大木で、白い地味な花が垂れ下がるようにたくさん咲く、今、山地では花が満開、この句の作者は、満開のトチの花を前にして、記憶があるようでない何かが想起されたのだろう) 6.18


・ オフェリアの抱く姫女苑(ひめじょおん)野外劇
 (伊東いと子、悲しみに狂ってしまったオフィリアは、ハムレットの母ガートルードにヒナギクの花を渡す、そのヒナギクの代りに周囲に生えていた姫女苑を使ったのだろう、アマチュア劇団の野外劇か、採ったばかりの新鮮な姫女苑) 6.19


・ 短夜明(あけ)いそぐ夜のうつくしき竹の月
 (高井几董1741〜89、作者は蕪村の弟子、竹藪に夜の月が美しく照っている、でも夜は短い、もう東の方は明けかけている、明日は夏至) 6.20


・ 短夜や壁にペイネの恋かけて
 (上田日差子1997、清水哲男氏によれば、「青春俳句の傑作」で、「恋かけて」が新鮮。作者は女子高校生だろうか、今、恋をしているのだろう、眠れない夜が明けてしまった、レイモン・ペイネの可愛い恋人たちの絵が壁に掛かっている、今日は夏至) 6.21


・ 鈴蘭は振つてみてからコップに挿す
 (原子公平、高原に咲くスズランの白い花は、とても小さな鈴のようだ、振っても音が出るわけではないが、ちょっと振ってみたくなる、でも音はしなかった、そしてコップに) 6.22


・ 可愛いと自慢してくるその猫に会いたいと言ってもいいでしょうか
 (Onigiryui・女・18 歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、「普通の友達なら簡単に言えることでも、好きな人が相手だと言えなかったりします」と作者コメント、彼氏が自分の猫を「可愛い」と自慢したのだろう、愛されたいのは私なのに) 6.23


・ 一息でツナの缶詰を開ければそこは寒いラブホテルの匂い
 (鈴木晴香・女・32歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、力を入れてツナ缶のふたを一気に引き剥がしたのだろう、人はラブホテルのドアをそんな風に張り切って開けるものなのか(笑)、ぶっ飛んだ想像が面白い) 6.24


・ コンビニに入る前までわかってた駅がどちらかわからなくなる
 (清信かんな・女・31歳『ダ・ヴィンチ』短歌欄、穂村弘選、都心のデパートでは入った入口と違うところから出ると、こういうことがよくあるが、コンビニでもあるのか、大きな十字路の角にあるコンビニで、地下鉄の別の出口が対向側に見えているとか) 6.25


・ くもの糸一すぢよぎる百合の前
(高野素十、「百合の花に近寄って見ようとしたら、手前にとても細いくもの糸が一本横切っているのに気づいた」、作者は客観写生の名手、くもの糸によって、百合の花の大きさ、白さ、清らかさが際立つ) 6.26


・ 穀象(こくぞう)の一匹だにもふりむかず
 (西東三鬼1946、コクゾウムシは米や麦など穀類につく黒い虫、米袋から中の米をざあっと空けたのだろう、そしたらコクゾウムシもたくさん出てきて、さっと散るように逃げた、「一匹だにもふりむかず」が見事) 6.27


・ 言ふならば切つた張つたのことですよ遺伝子工学といふもやくざよ
 (中川健次「牙」2007、作者は研究者だろう、当時の遺伝子「工学」は、DNA配列を切ったり張ったりする難しい手作業で、高度な職人芸だった、だがここ数年、ゲノム編集(クリスパー・キャス9)の登場で光景は変った) 6.28


ニュートリノ地球貫通せよ われに花も紅葉もふるさともなし
 (坂井修一『スピリチュアル』1996、作者は情報工学者、地球を貫通する素粒子ニュートリノのように、すべてをミクロの物質レベルで捉えるのが仕事、定家や啄木が詠むような対象はそこにはない) 6.29


・ 足拍子ひたに踏みをり生きかはり死にかはりわれとなるものを踏む
 (水原紫苑『びあんか』1989、能を観ながら舞いを舞う役者に自分も一体化しているのか、あるいは作者自身が舞っているのだろう、「生きかはり死にかわりわれとなるものを踏む」という表現が素晴らしい) 6.30