木下順二『子午線の祀り』

charis2017-07-11

[演劇] 木下順二子午線の祀り』 世田谷パブリックシアター 7月11日


(写真右は、舞いの中心に立つ平知盛(野村萬斎)、写真下は、最後の壇ノ浦の戦い、左端が知盛、右端は義経(成河))

この作品は初演(1979)以来、すでに7回も上演されているという。私は初見だが、今回の野村萬斎演出・主演の新しい舞台は、宇宙的な美しさを併せ持つ見応えのあるものだった。事前に戯曲を読んだときは、この長さをどうするのだろうと思ったが、科白をかなりカットして3時間25分に収まるちょうどよい長さだった。とはいえ、第1幕は、群読の部分が多くて演劇的動きが乏しいので、ここはもう少しカットできるのではないか。滅びゆく平家の総帥平知盛と、追討する源氏の義経の魅力がとてもよく描かれている。壇ノ浦で入水する知盛34歳、義経は当時27歳、どちらも若者なのだ。義経も4年後には死ぬが、壇ノ浦の時点ですでに頼朝は義経を警戒しており、目付の梶原景時の言動からそれはよく分るのだが、義経が「僕は弟だから兄から信頼されている」とつゆほども疑っていないのが痛々しい。彼は軍事の天才ではあっても、政治は素人だったのだろう。その点、知盛は政治も軍事も分かる人で、一の谷の合戦で息子を殺されて逃走したことの負い目など、人間としての深みもよく表現されている。『子午線の祀り』は『平家物語』を元に作られているが、小規模とは言え、ホメロスイリアス』のような作品だと思った。木下順二から萬斎まで、さまざまに工夫されてきた「群読」は、ギリシア悲劇のコロスのように感じられた。(写真下は、平氏[中央が知盛]と、源氏、義経役の成河[そんは]は小劇場出身らしいが、若々しい武者ぶりがとてもよい、中央に弁慶を挟んで左端は梶原景時)


本作は、壇ノ浦(関門海峡)の潮の動きの速さと方向転換が勝敗に及ぼした影響を重視しており、月の引力による潮の満ち干が起きることを、当日3月24日の朝「子午線を月が横切る」ことと重ねあわせて、そうした天文学的ナレーションが繰り返される。このナレーションは、西洋天文学の成果をもとにしているので、観客がいきなり聞いてもやや難しいかもしれない。それよりも、壇ノ浦の決戦はやはり「人事」であり、四国の豪族である安房民部重能が、結局は平氏を裏切ったこと、地元の水軍たちの多くが途中で平氏から源氏へ寝返ったこと、義経が、戦時国際法(?)を無視して、平氏の船を操る水夫たちをまず殺して船を操作不能にしたことが、勝利につながったことなど、勝敗を決したのは結局は「人事」なのだ。それが舞台からとてもよく分る。平氏の形式上の総大将である平宗盛は、ただ右往左往するばかりでまったくダメな司令官だったことを、前進座女形役者である河原崎國太郎が見事に演じている↓。そして、『平家物語』にはない「内侍の影身[かげみ]」という神話的女性を造形したのが成功している。霊界から知盛に静かに語りかけてくる影身と、入水する知盛の影身への愛の叫びによって、平氏への鎮魂の叙事詩(レクイエム)が完成した。(写真下は、宗盛と、影身[若村麻由美])