チェホフ『ワーニャ伯父さん』

charis2017-09-10

[演劇]  チェホフ『ワーニャ伯父さん』 新国・小劇場 9月10日


(写真右はポスター、下は、左からエレーナ(宮沢りえ)、ワーニャ(段田安則)、ソーニャ(黒木華)、落ち着いた舞台装置と衣装、光と闇の配合、ギターの生演奏など、全体が美しい)

ケラ演出は、長々しい議論の部分のカットや、ユーモアや笑いを取るために科白の細部を変えてあるが、オーソドックスな演出。新国の小劇場は約400席で、このくらいのスペースが、チェホフのようなホームドラマ演劇には一番いい。昨秋、熊林弘高演出の『かもめ』はとても良かったが、そのとき考えたのは、チェホフは原作通りのリアリズム演出ではちっとも面白くなく、「ちょっと哲学でもしましょか」とか言って長々しい議論をする文化も日本にはないので、全体が白けてしまうし、演出がとても難しいということだ。ケラ演出は、「哲学しましょ」関連は全部カットしているし、細部で笑いを取るように細かく科白と仕草を変えている。召使が物を落したり、エレーナが鉛筆を折ったり(これらは原作にない)、アーストロフとのおおげさなディープ・キスとか、ソフィーに対して「結婚相手は若い男がいいに決まってんじゃん!」と肉食系っぽく、ドスの効いた低い声で言うとか、とにかく笑わせる。エレーナの下品な発言や醜い表情も、宮沢りえが演じるととても美しいので、高慢な美女エレーナに宮沢を起用したのは大成功だと思う。かなりのインテリであるしょぼいワーニャの段田安則、不器量だが無知ゆえの強さもある少女ソーニャの黒木華、ともに適役。(写真下↓)


しかし、今回のケラ演出が日本における『ワーニャ伯父さん』の優れた演出であるとしても、チェホフ劇のもつ深いところが十分に表現されていたかどうかは難しい。チェホフ劇では、誰もが狂おしいほど愛を求めているのに、それが満たされず寂しいままに人生を生きてゆく姿を描いている。恋愛も結婚もみな失敗し、愛は成就しない。愛を求めてジタバタするその滑稽さに、我々は皆大笑いをするけれど、しかし同時に我々は泣いている。なぜなら、醜態を演じるその姿はまぎれもなく我々自身の姿であり、そのように不器用にしか生きられない、その切なさに涙するからだ。我々はワーニャやソーニャに限りない愛おしさを感じる。(写真下↓)

マイケル・フレイン「『ワーニャ伯父さん』について」(小田島雄志訳『ワーニャ伯父さん』に収録)によれば、改作前の習作『森の主』ではワーニャが自殺するところを、本作では、ワーニャが自殺せずに、替りに教授をピストルで撃って失敗することに変えたのが作品のポイントである。『かもめ』のコースチャの自殺、『三人姉妹』のトゥーゼンバッハの決闘死など、誰かの死によって、残された者が「不幸に耐えて、生きていかなければ」と決意するのが、チェホフ劇の核心である。終幕、ワーニャは、自殺の苦痛を和らげるために医師アーストロフのモルヒネを盗むが、見破られて、ソーニャの説得によってそれを返す。ワーニャは死ねないのだ。47歳のしがない独身男にとって、結婚の望みはなく、人生60年として、何の幸福も得られずにあと13年を生きなければならないのは、何と辛いことだろう。自殺できないワーニャは、チェホフが「死による解決」を退けたという点で、彼の主題が一歩深まったとも言える。終幕の直前、ソーニャの最後の科白は、この上なく感動的だ。「伯父さんは生涯、喜びを知らずにすごしてこられた。・・・泣いていらっしゃるのね。・・・大好きなワーニャ伯父さん、でも仕方ないでしょう、私たち、生きていかなければ」。『三人姉妹』の終幕は、恋人を失ったイリーナを抱きしめて、二人の姉が言う科白だった、「私たちだけが残されて、新たに生活を始めるのね。生きていかなくてはならないのね・・・、生きていかなくては・・・」。愛が成就せず、幸福が得られなくても、それでも我々は生きていかなければならない。これは、たんにチェホフ的主題というよりは、現代人における普遍的な主題ではないだろうか。