穂村弘・藤田貴大他『マームと誰かさん』

charis2017-12-21

[演劇] マームとジプシー/穂村弘名久井直子『マームと誰かさん』 原宿・Vacant 12月21日


(写真右はポスター、下は、左から、穂村弘、藤田貴大、青柳いづみ、名久井直子、右手に椅子が並ぶ小さな部屋で、観客は100人弱?)

私は穂村弘の短歌が大好きで、彼が出演するので観に行った。マームとジプシーは観たことがなく、これが初めて。何度も読み返している穂村の歌集『ラインマーカーズ』は、とても美しいユニークな装丁で、その装丁作家である名久井直子穂村弘との対談「劇」かと思っていたが違った。内容は、穂村弘の自伝的物語を、マームとジプシーの看板女優である青柳いづみが一人芝居で演じるものだった。名久井直子の装丁の話も出て来るが、それよりは、ヨーロッパ公演に行く青柳いづみの旅行荷造りの映像など、青柳とのやり取りの比重が大きい。穂村弘の子ども時代の写真、小学校のときに書いた作文、彼の父と母など、たくさんの写真や映像が壁に映されて、穂村ファンの私にはとても楽しかった。穂村弘とはこういう人だったのかと、いろいろと分かったし、彼の短歌もたくさん引用されたり青柳が科白として語るので、自分が穂村弘の短歌のどういうところに魅力を感じていたのかが、あらためてよく分った。(下の写真は2014年の同様の催しでの青柳)

青柳はチェルフィッチュにも出ている女優だが、今回の上演で彼女が何度も椅子からだらしなくずり落ちる姿を見て、チェルフィッチュのあの奇妙な身体表現とオーバーラップした。彼女は、脱力系の若者なのだ! そう思って穂村弘その人を見ると、彼もまた脱力系男子ではないか(穂村の父は85歳でよく登山をするが、同行する弘はすぐへたばってしまう)。私には、彼の短歌の、なんとも言えない優しい感じが、脱力系の若者のなんとも愛おしい感じと重なってくる。私の好きな彼の歌を挙げてみると、そういう共通点があるように思う。たとえば、


@ 終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて
@ ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
@ 目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき
@ 眩しいと云つてめざめる者の眼を掌で覆うときはじまる今日よ
@ おやすみ、ほむほむ。LOVE(いままみの中にあるそういう優しいちからの全て)。[「ほむほむ」は、穂村のこと、「まみ」は歌人雪舟えま]


終演後の、穂村弘と藤田貴大とのトークはとても良かった。そのテーマは、「言葉には出口がなければならない」ということ。歌人は、歌が印刷されて本になり、劇作家が考え出した科白は、それが俳優の口から出て、初めて言葉が他者に届く。名久井直子は、本という場で、穂村弘の言葉の出口の一部になり、青柳いづみは、今回の戯曲(藤田と穂村と青柳の事実上の合作)の言葉の出口となる。今回、11月の青柳のヨーロッパ公演中も、ほぼ毎日、穂村と青柳はメールで語り合っている。それが戯曲の中身に反映している。そして練習が始まったあと、青柳は「どうしてもこの科白は言えません」と、拒否した科白があったらしい。優しい性格の穂村は、じゃあそれは落そうと、取り下げた。その遣り取りは、やはり作者の一員でもある演出の藤田は知らなかったようで、こう言った。「えっ、本当ですか。僕は劇作者として、自分が書いた科白を俳優が拒否するのは絶対に許さない。今まで、一度も許したことはない」。


ここには、演劇の本質に関わる重大な問題が提起されている。藤田によれば、演劇では「言葉の出口」は生身の俳優だから、俳優の「語り」によって言葉のインパクトは大きく変る。だから、どこまで言わせるかにとても悩み、表現をどう「寸止め」にするかが戯曲を書くときに一番留意する、と。穂村弘は、今回のシナリオについて、「自分が書いた部分よりも藤田が書いた部分の方が、青柳の口から出る言葉が輝いているように感じて、嫉妬を覚えた」、とも言った。青柳という女優の口からどう語られるかまでイメージして科白を書く、というのは劇作家にとってなかなか難しい課題だろう。演劇では、「言葉の出口は俳優」ということは、シェイクスピアもチェホフも苦労した問題だと思う。