[演劇] 唐十郎『少女仮面』 新宿梁山泊

[演劇] 唐十郎『少女仮面』 新宿梁山泊 芝居砦・満天星 12月25日

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李麗仙追悼公演としての『少女仮面』。6月に杉原邦生演出版を見ているので、この作品について理解が深まった。この金守珍演出は、杉原版がシュールで美的に洗練されていたのに対して、やや泥臭さいのだが、唐のオリジナルはたぶんこれに近いのだろう。不条理な肉体性から美が現出するのが、唐演劇の真骨頂だが、その肉体の不条理性をどう描くか、そして、不条理と美との均衡点を、歌と踊りという肉体表現の様式性によって、どのように昇華にもってゆくのか、このあたりが、演出家の腕の振るいどころだろう。(写真↓は、ヒロインの宝塚女優、春日野。李麗仙がずっと演じてきた役だが、今回は新宿梁山泊の看板女優、水島カンナ、春日野は「男装の麗人」だから、李とちがって、ややふくよかな水島はイメージが少し違うのだが、後半は、どんどん「男装の麗人」ぽくなっていた)

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『少女仮面』は「男装の麗人」の肉体性が主題なので、トランスジェンダーが含意されていると同時に、宝塚の舞台で彼女が活躍すればするほど、自分自身の肉体を喪失することも重要なテーマになっている。宝塚を見に来る少女たちは春日野に「永遠の処女」を見ているのだが、そのように春日野を見ること自体が「性的搾取」でもある。そのことを、宝塚女優になりたいと春日野のもとに弟子入りを乞う16歳の少女「貝」に、春日野が必死で教える、というのが『少女仮面』全体の物語。(写真下は「貝」(紅日毬子)、1969年の初演では吉行和子がやり春日野は白石加代子だった、貝と春日野は素晴らしい演劇キャラだ)

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終幕はやや難解なのだが、満州の病院で惨めに死んでゆく春日野は、貝との愛によって魂が浄化される。「肉体の奴隷」と「愛の亡霊」というのが、この作品のキーワードだが(『嵐が丘』に由来)、春日野は死の瞬間に、貝との愛によって、この両者から解放される。肉体の不条理性と性的搾取を十分に理解した貝は、それでも春日野の遺産を継ぎ、すばらしい宝塚女優になるだろう。春日野は愛を贈与して死ぬが、貝はその愛を受容し、貝の人生を成就する。愛はこのように木霊のように響き合い、受け継がれてゆくのだ。(写真↓は、最後に春日野が恋する甘粕大尉、どこか女性的だ、そして東京から満州まで春日野を見舞いにきた宝塚ファンの少女、彼女たちは春日野の靴、引きちぎった服の片袖、風呂場でみつけた髪の毛を春日野に返却する、つまりフェティッシュな肉体性の象徴を)

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あと、水飲みのサラリーマンを、78才の大久保鷹が熱演。彼を見られてよかった(写真↑左)。