[演劇] 加藤拓也 『いつぞやは』

[演劇] 加藤拓也 『いつぞやは』 シアター・トラム 8月29日

(写真↓は大腸ガンで死期も近い一戸(平原テツ)と高校時代の同級生真奈美(鈴木杏)、下は手術で切り取った大腸を見せる一戸。急遽代役で主役の一戸を務めた平原は、一戸という一人の男を「必然性のある可能態として再現した」(アリストレス『詩学』)素晴らしい役者)

加藤拓也を観るのは初めてだが、「人と人とのありうべき繋がり」「人と人との望ましい距離感」を追究した傑作だ。現代の若者たちは、互いにクールな関係を好み、あまり「熱い」「濃い」関係を好まないと言われる。それはその通りなのだが、一方で彼らは、互いの距離を上手く保つために、過剰なくらい繊細な気遣いや気配りをする。これが本作の主題。数年前まで友人たちと演劇をしていたヘボ役者の一戸は、ステージⅣの末期の大腸ガンになり、故郷の青森に帰るが、その前に、かつての演劇仲間と一度会いたくてたまらないが、「ガンで故郷に帰るから一度会いたい」などと言えば仲間たちは心配するだろうから、「(自分でチケットを買い)たまたま演劇を見に来て」、偶然会ったという形にした。しかし歓談しているうちに、ぽろっと自分のガンのことを言ってしまい、仲間たちは衝撃を受ける。しかし、一戸は「俺、別に悲観してないんだ」とわざと明るく振る舞い、仲間たちも受けた衝撃を隠して、明るく冗談を言い合う。悲しみや辛さを隠すために、人はわざと明るく振る舞うことがあるが、その明るさにはある種の危うい緊張があり、悲しみを抑圧しているピリピリした痛みが伴う。その緊張の痛みをさまざまな角度から照らし出して見せるのが、本作の実質的な内容だ。演出の加藤から俳優たちに、「本当はこう反応したいけどみんなの前で感情を出すのは恥ずかしいからそれを隠す」という指示があったらしいが(プログラムノート)、たしかに人間はこのように生きている。一戸と仲間たちは、一緒に歌ったり踊ったり、異様な躁状態になってゆく(写真↓)。そういえばチェホフ劇にも似たような局面があり、ごく最近観たS・ホームズ演出『桜の園』も、異様に高揚した躁の気分に溢れていたが、おそらく本作と同様、悲しみや辛さを隠すために人は過剰に明るく振る舞うのだ。

本作は細部がとてもよくできている。たとえば、SNSで友人が投稿しているのを見つけたが、フォローするかどうか悩むシーンがある。それが友人である場合、どちらが先にフォローするかで、互いに相手とどのような離感にあるかに微妙に影響する。そこまで現代の若者は気を遣っているのだ。私のような年配者の世代とは、人と人とのつながり方、距離の取り方が、少し違ってきているのか。あるいは、誰かが話している最中に仲間の一人が全然別の話題を話し始めるシーンが何回かあるが、これは最初の話を聞いていると辛くなるからあえて聞かない、話題を変えようという、屈折した気配りなのかもしれない。そして、最初は「もう、やりたいことは特にない(だから死んでもいい)」と言っていた一戸が、仲間たちと交流するうちに、「まだやりたいことあったな」に変わってくる。真奈美に対して、「お前バツ2で子持ちか、俺も結婚してみたいな、子供もほしいな」と言う。それに応えて真奈美は死の直前の一戸と結婚する。それも、これみよがしにやるのではなく、終幕、一戸の死を電話で連絡してきた真奈美から、仲間たちはそのことを知って泣く。一見アバズレに見える真奈美は、人の気持ちがよくわかる優しい人間だった。そのことを我々は事後報告という形で過去形で知る。この過去形が『いつぞやは』というタイトルに含意されている。一戸自身も、死期が半年ないというのに、強がりや冗談を連発しつつ、よく歩けないほど衰えた母に優しく付き添っている。優しさの感情を人に堂々とみせつけるのはとても恥ずかしくてできない。だから優しさと反対のように見える言動もする。人間の<優しさ>というもののデリケートな在り方を、実に繊細に多面的に提示するのが『いつぞやは』なのだ。

 

あと、プログラムノートにあった是枝裕和と加藤拓也の長い対談が、きわめて充実している。演劇における演技、映画における演技、それぞれの科白と録音方法やカメラの位置、そして人物の動きが物語とどう関係するかなど、演劇や映画における表現の問題が立ち入って論じられている。美学の優れた論文を読むような充実感がある。

 

1分半の動画↓、ただし一戸は平原テツではなく最初に予定されていた窪田正孝

【いつぞやは】稽古風景 - YouTube